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豊臣秀吉の正妻である高台院の晩年の待遇は詳しく分かっているのでしょうか?

cla********さん

2013/8/2721:46:54

豊臣秀吉の正妻である高台院の晩年の待遇は詳しく分かっているのでしょうか?

豊臣秀吉の正妻だった高台院(北政所)と言えば、大坂の陣で豊臣家が滅亡して以降も江戸幕府から大名並みの待遇を受けていたようですが、その詳細は分かっているのでしょうか?


江戸幕府は、大坂の陣での豊臣家の滅亡以降、苛烈な残党狩りや秀吉の墓所の破壊を行なうなど、徹底的に前政権を否定して徳川の天下を示したように思えるのですが、唯一秀吉の正妻だった高台院だけは、手厚い待遇を与えたようですが実態はどうだったのでしょうか?


・・・徳川家からすれば、秀吉の跡継ぎである秀頼を謀叛人扱いして滅ぼした以上、本来ならその義理の母である高台院も連座させるという論理も有り得たと思うのですが、さすがに秀吉の死後から関ヶ原までの政治状況で家康よりに振る舞った功績が余りにも大きかったので、高台院は(秀吉に最も近い立場でありながら)聖域として扱わざるを得なかったという事なのでしょうか?


もしそうならば、「大名並みの録を与えた」というよく言われる話意外に何かエピソードはあったのでしょうか?例えば、高台院と対面する幕府の役人が、否定の対象であるはずの秀吉の事を「太閤殿下」と敬称で呼んでいたとか・・・。

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kan********さん

2013/9/116:48:42

津田三郎『北政所』(中公新書)に詳しいので、興味がおありなら読んでみるといいと思います。大名並みというのは秀吉から与えられた1万6千石をそのまま死ぬまで持っていたからだと思いますが、高台院は高台寺でひっそりと暮らしているので政治的な影響力は表向きはほとんどなかったでしょう。足しげく参詣していた豊国社が破却されるなど、晩年は決して幸福ではなかったのではないかと思います。

私は、高台院が関ヶ原で家康寄りだったとは考えていません。伏見城が落城すると、毛利輝元が8月2日に豊国社に神楽を奉納していますが、同じ日に高台院も参詣して神楽を奉納し、帷子を贈っています。また、西軍から東軍に寝返り、大津城に籠った京極高次を淀殿とともに説得して開城させています。秀吉時代からの厚遇を家康は「黙認」してはいるものの、決して厚遇したとは言えず、むしろ高台院が心のよりどころとする豊国社の力を削いでいっています。

慶長7年に、家康は豊国社本殿前の極楽門を琵琶湖の竹生島観音に寄進し、社領一万石のうち二百石を知積院に渡すよう命じます。また、例大祭の奉納者名簿を写し取るなど監視を強めています。高台寺建立には家康も協力したようですが、木下家の相続問題では家康と高台院は対立し、高台院は、関ヶ原で西軍挙兵に呼応して徳川の兵が守る伏見城を出た勝俊への相続を訴えて、家康の孫松平忠明の『当代記』などに「老いによる気違い」などと非難されています。

大坂の陣直前には大坂へ向かいますが、なぜか鳥羽で引き返しています。逸話で言われるように徳川方に止められたのでしょうか。豊臣家が滅亡すると、家康は豊国社破却を命じます。高台院の懇願で社殿の建物自体と神社を管理する神宮寺は残すことになりました。しかし、家康死後、神宮寺を手放すよう命じられ、一緒に社殿も没収、幕府に近い妙法院にわたります。この経緯には金地院崇伝が絡んでいて、妙法院が明け渡しを求めたのに対し、豊国社の別当梵舜は「神宮寺は崇伝を通して家康様から与えられたもので妙法院に渡す義理はない」と主張。しかし、崇伝は「自分はそんなことは言っていない」と無視。梵舜が崇伝を尋ねて説得すると崇伝は「もっともである」と理解を示しましたが、これも虚偽で明け渡しが幕府から命じられました。

高台院は死の間際、妙法院に渡った唐装束を返してほしいと懇願しますが拒絶され、豊国社の別当梵舜が唐装束を絵に書いて高台院に贈りました。それから一か月もないうちに高台院は没しています。こうしてみると、結構悲しい最後です。1万6千石は没収され、養子木下利三には改めて3千石のみ与えられました。

質問した人からのコメント

2013/9/2 20:12:45

降参 『北政所』読んでみたいです。他の方も含めて参考になりました。ありがとうございます。

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nih********さん

2013/8/2815:02:11

淀殿と北政所が仲が悪く北政所が秀吉死後に大坂城を退去して、そこに五大老の筆頭でもある徳川家康が北政所を味方にしたからこそ豊臣家の重臣である賤ヶ岳の七本槍・七将とかの加藤清正らが家康に味方をしたのだと思う。仮に家康が高台院を味方につけなかったら石田が嫌いな重臣は秀吉の恩もありどちらにもつかず高みの見物をして関ヶ原には手を出してないと思う。高台院がいたからこそ家康が勝てて天下を取れたのだから高台院には手を出さないのは普通。

d73********さん

2013/8/2722:49:28

ご存知とは思いますが、北政所が豊臣秀吉死後剃髪して高台院となり高台院を建立した事は有名な事実です。
高台寺は臨済宗の寺社なので、何の咎無く廃却されれば臨済宗全てを敵に回す事になります。
ちなみに、徳川幕府高官には臨済宗の僧侶、金地院崇伝がいますが、幕府が臨済宗を敵に回せば崇伝さえも幕府の敵になります。

つまり、高台院1人を粗略に扱っただけで幕府は作らなくても良い敵を作る事になります。

高台院は幕府によって生涯保証されていた禄が5千石とも1万石とも言われていますが実態は良く分かっていません。
家康は高台院の豊臣家に対する影響力を期待していたようですが、慶長14年の家康と豊臣秀頼の二条城会見の際は、高台院の説得(当初、秀頼…と言うより淀君は家康との会見に反対だった)は不調に終わっています(二条城会見は加藤清正や浅野幸長、福島正則らの尽力で実現した)。

ちなみに、豊臣秀頼の娘(名前は不明)は大坂夏の陣後、天樹院(千姫)に庇護され鎌倉の東慶寺で二十世・天秀尼となり、東慶寺は江戸期を通じて「縁切り寺」になりました(縁切り寺は江戸時代、東慶寺と群馬の満徳寺の2つしか存在しない)。

つまり、徳川幕府が豊臣家を嫌い滅亡に執念を持っていたとしても仏門は別格だった事になります。

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