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大村益次郎 殉難について 大村益次郎 殉難について

yxfqh456さん

2007/9/3009:11:56

大村益次郎 殉難について

大村益次郎 殉難について

●大阪市上町の大阪国立病院前に「大村益次郎殉難碑」がありますが、
 京都の旅館で刺客に襲われ重傷を負い、上町の病院で死去したということですか?
●大村益次郎は刀で切られたのですか?
●明治2年に刺客にあったらしいが、重傷なのに 当時京都から大阪までどういう交通手段で移動したのでしょうか?
●当時、この上町の地に 大村が治療を受けた(浪華仮病院)があったらしいが、
 どれくらいの規模だったのでしょうか?
●「殉難碑」のある所にその病院があったのでしょうか?
●浪華仮病院が現在の大阪国立病院になったのでしょうか?

いろいろすみません。

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ベストアンサーに選ばれた回答

poti8484さん

編集あり2007/10/106:44:22

刀で顔に切り傷と足の右膝関節の部分に致命的な重傷を負ったようですね。急遽師匠筋で旧知でもある緒方惟準が京都に赴きましたが、足の傷については京都での治療が難しいということで、自身が院長を務める大坂府医学校病院に運んだようです。ここにはオランダ人医師ボードウインをはじめ、高安道純といったそうそうたる医師がいます。

当時大阪・京都間の交通路といえば淀川の水路を使うのが一般的でした。明治のはじめには一年間に10万艘の船が行き交ったそうです。大村益次郎の搬送もこの水路を辿ったと資料にはあります。
一端長州藩邸に運ばれ、近くの高瀬川から宇治川、淀川と巡って下り、大川を経て天満橋辺りで陸路をとったものと推察します。天満橋から大坂府医学校病院までは直線でおおよそ800mぐらいの距離でしょうか。この搬送には若い頃の児玉源太郎や寺内正毅なども同行したようです。

浪華仮病院は元々大福寺の境内を借りて設立したときの名称ですね。その後現在の地に移って大坂府医学校病院としてスタートします。規模は学校の併設や薬草園なども持っていた様で、そこそこの規模が有ったのではないでしょうか。明治5年に文部省による学制改革でこの大坂府医学校病院はすぐに廃止となり、(これに困った大坂府は有志から寄付を仰ぎ、その翌年に西本願寺津村別院内に大阪府病院を建設しますが、これが現在の大阪大学医学部の前身となります)その跡地には創設間もない陸軍歩兵第8連隊が駐屯することになります。

旧大阪陸軍病院を前身とする国立大阪病院が河内長野から移って来たのは戦後になってからです。現在は独立行政法人となって国立病院機構大阪医療センターと名前が改められていますが、殉難碑のある場所に大坂府医学校病院があったのは確かで、その跡地に陸軍が駐屯し、終戦後に国立大阪病院が移転してきたというのが正確な状況です。
ですから浪華仮病院(大坂府医学校病院)が国立大阪病院になったのではなく、寧ろ適塾門下生人脈の流れでみれば大阪大学医学部の前身が浪華仮病院(大坂府医学校病院)ではないかと思われます。

質問した人からのコメント

2007/10/6 19:31:08

降参 詳しくありがとうございます。
たまたま、靖国に行くと銅像があり、また大阪にも殉難碑があり興味を覚え、回答でもっと興味がでました。
近々、司馬の「花神」を読みます。

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