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黒田孝高についての質問です。 戦国時代で最も智謀に優れた武将と名高い官兵衛...

nih********さん

2014/7/1216:59:49

黒田孝高についての質問です。

戦国時代で最も智謀に優れた武将と名高い官兵衛ですが。
今、軍師官兵衛を毎週楽しく見ています。

幽閉から救出されて、以降官兵衛はかなり冷静さと、「滅びますぞ」と脅しをかけるなど敵に今にも噛みつきそうな威圧を身につけたように思います。
これは、もちろん岡田准一さんの役作りもあるでしょう。「幽閉されて、自分の甘さを省みて、敵の前では隙を見せないようにしている」「半兵衛のアドバイスを胸に、敵を脅す冷徹さももってかからなければ勝利は掴めない」といった心境の変化と軍師としての成長の表れなのではと思ってみています。

そこで、官兵衛は天下取りの野心も持つようになったといわれていますが、はたして官兵衛という人間は、どのようなお人だったのでしょうか?
家族や家臣に優しく忠義の人なのか、冷徹なまでに合理的な人物なのか、どちらももっていて使い分けていたのか。もちろん、本来の人物はわかりませんが、生き様から推察すると、忠義心のあって、野心を持ちそうにはみられませんが。

それと、秀吉の天下は官兵衛に支えられたとよく言われますが、官兵衛は秀吉に天下を取ってほしかったのか、それともその陰で自分が弾頭しようとしていたのか。
もし官兵衛が秀吉を慕っていたなら、ただただ秀吉を持ち上げようとしていたのでしょうか?

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ejz********さん

2014/7/1218:05:13

本能寺で信長が討たれた第一報を知った秀吉は茫然とし、取り乱しました。
この時、官兵衛は「殿、ご運がむいてきました。すべては官兵衛にお任せください」とささやいたのです。
信長というトップがいなくなった瞬間に、後釜を狙えるチャンスがきた、と冷静に判断できる官兵衛という男の底知れぬ怖さに秀吉は内心ゾッとしました。
これ以後、秀吉は官兵衛に警戒心を持ったといいます。
そして官兵衛も、そのような自分を大いに反省して、これ以後は能力を表に出さず、縁の下で支える役割に徹したそうです。

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liv********さん

2014/7/1219:16:18

戦国時代の武士は基本的にみんなそうです。

gen********さん

編集あり2014/7/1220:43:02

官兵衛・野心・玉子焼き

少しおかしいですよね。そんな事をわざわざ宣伝用キャッチコピーのように言い伝えて言い伝えて、歴史に残す意味がありません。主君の横死の次にくるものは跡継ぎか敵討ちです。小六や小一郎や長吉が「よっしゃ!天下じゃい!」と言って巨人・大鵬・親方様の秀吉配下が安直この上ありません。

官兵衛は言わされたのです。そこは冷静に前を見据える官兵衛たけで良かったのです。「その時もう一方の手は何をしていた」と晩年に長政を諭す場面、明らかに納得いきません。野心なんか持ち出したおかげで今度は長政がおかしなセリフ言わされます。

歴史は確かに自由ですが、誰かが無用にねじ曲げ時に新しい人物像を創り、勝手に歩いている事を知る必要もあるのです。

ben********さん

2014/7/1307:22:53

思うだけは、自由です。
毛利元就いわく、天下を望んで、やっと、中国全土だそうで、明智光秀も、海で拾った観音のご利益に不満を唱えていたりします。
夢を果てしなく追い求めて、やっとの一国。
切ないけれど、真実です。

k1_********さん

2014/7/1307:54:17

軍師たる役目は、戦略・戦術などの英知を授ける他にもネゴシエーション(交渉)も担当します。故に、交渉上手も軍師の条件。相手の心理を読み強かな心理戦も展開する次第。この官兵衛の器量(才能)を高く評価しつつ、警戒してたのが秀吉であった。故に、天下人になった暁に秀吉がある夜、次の天下を狙うものは誰かと、話を持ち出した。家康とか蒲生(氏郷)の名が出たが秀吉が言うには、「あのチンバ(官兵衛のこと)よ」と述べたという。官兵衛のキレ者ぶりを見抜いていたし、逆に篭絡した家康の律儀さに秀吉は、ある意味騙されていたようだ。その官兵衛も、秀吉が警戒してることを見抜き、若くして隠居し家督を長政に譲った。だが、天下取りへの野望は持ち続けていたようで、関ヶ原合戦のとき、息子長政は、福島正則らと一緒になって三成憎しで張り切って活躍、結果関ヶ原の戦いはあっけなく1日で終わった。長政が自慢して、戦いの様子を知らせると、如水(隠居の号、官兵衛)は「馬鹿なやつよ。俺は石田がもう少し頑張ってくれたら、九州から打って出、天下をものにしょうと思っていたのに」といって嘆いたという。息子長政とでは親父の器量の違いは鮮明であった。

xhc********さん

2014/7/1409:50:28

幽閉後から変わったのは確かですが、ドラマの中の今にも噛み付きそうな
威圧をしていたのは、半兵衛が亡くなって自分が変わりにならなければ
と気負っていたからだと思います
秀吉にもそのことを悟られていました

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