元技術屋としては、「技術開発」の究極の目的は人を幸せにすることだと考えています。軍事兵器の開発者ですら、「平和のため」と信じている節がある。
しかし、実際には新しい技術が常に人を幸せにする訳ではない。これは技術の使い方に問題があるのだと思います。
例えば、パソコンの場合。
私が若い頃にはパソコンもワープロもなくて、文書は全て面倒な手書き。研究データ解析や会計の膨大な計算も全て手計算。
これがパソコン、ワープロが出来てからというもの、飛躍的に手早くできるようになった。作業時間が大幅に短縮され、大学生の卒業論文の仕上げに3日3晩徹夜などということはもう必要ない。ホワイトカラーのサラリーマンは週休3日、4日も夢ではない・・・ハズだったのですが、現実はどうか。
仕事では、今まで以上に多くの細かい文書資料が要求され、仕事の余裕は昔より無くなった。メールを使えば締切ギリギリに提出することもできるので、最後までアレコレうるさい事を言われる。何でこんなことになったのか?
例えば、同じ仕事でも霞ヶ関から要求される報告は(私事失礼)年々増加し、まるで「パソコンがあるんだから、このくらいの報告すぐできるでしょう」とでも言いたげ。要は「便利な道具があるんだから、もっとあんな事もさせよう、こんな事もさせよう」と、官僚が我が身を守るため(上への説明内容を固めるため)に、パソコン・メールという便利なツールを利用している。
これは言い換えると、「人の幸せ」のために開発された技術を、「自分の幸せ」のために利用しようとして、「他人を不幸」にしているという構図になっている。
「自分の幸福」と「他人の幸福」が常に一致するとは限らないのが世の常ですが、他者への思いやりが欠落した形で技術を使おうとすると、技術の進歩が幸福度の上昇につながらないのは当然かもしれません。
新しいコミュニケーションツールの功罪も、技術の軍事利用も、全ては、技術の利用に当たって「他人の幸せ」よりも、まず「自分の幸せ」を優先しようとする、非常に人間らしい(?)心根が生み出したものではないでしょうか?
私も、今後はもう少し「思いやりのある」回答を心がけようと思います(できるかどうか分からへんけど)。