ここから本文です

旧帝国陸軍の戦車や装甲車は貧弱でブリキに豆鉄砲と嘲られましたが、何故日本は戦...

ren********さん

2007/10/2713:17:36

旧帝国陸軍の戦車や装甲車は貧弱でブリキに豆鉄砲と嘲られましたが、何故日本は戦車や装甲車の開発に欧米に完全に遅れたのですか?首脳部が戦車への認識が低かったからですか?

もし、日本に欧米に対抗しうる戦車があった場合、各地での戦いも少しはまともに戦えたでしょうかね?もう一つ質問ですが、日本軍には短機関銃が一つしかなかったのは何故ですか?

閲覧数:
2,957
回答数:
8
お礼:
50枚

違反報告

ベストアンサーに選ばれた回答

cla********さん

2007/10/2714:00:55

確かに、当時の日本の工業力は欧米にまだ遅れていましたし、鉄をはじめ兵器に重要な金属の資源が少なかったことは言えますが、
でもゼロ戦を1万機以上生産した事や、大和武蔵をはじめ、すでに時代遅れになっていたとはいえ技術的に話にならないほど劣っ
ていたわけでもありません。強固とは言えないまでももう少し効果的な戦車ぐらい製造する事は可能じゃなかったかなと思います。

が、あまり強力な戦車を用いられなかったのは、ヨーロッパ方面とは違って海戦・空戦が主体の太平洋戦争が始まり生産に必要な
物資は艦船や航空機へと優先的に配分され、大型装甲車両など陸戦兵器の開発及び生産の優先順位が下げられた事があります。そ
れから海とは違って陸軍が主戦場としていた大陸方面では、戦車や装甲車両などを大規模に投入すると、進軍するすべてのところ
への燃料などの補給が(海以上に)大量に必要となりそこまでの資源も、人員も持ち合わせていなかったという事もあります。

もし日本に欧米に対抗しうる戦車があったとしても、どんどん広がる前線に投入する事ができずに後方におきざりになったでしょ
うから変わりないですね。(開発できる)技術力、(生産できる)工業力があったとしても、弾も燃料もありませんでは、持って
いないのと同じです。

この回答は投票によってベストアンサーに選ばれました!

ベストアンサー以外の回答

1〜5件/7件中

並び替え:回答日時の
新しい順
|古い順

lzc********さん

2007/10/2719:33:16

日本戦車が問題戦車だっのは幾つかの複合要因によると思われます。

冶金技術力が低く強力な戦車砲や戦車装甲板を製造出来る能力がなかった。
高性能工作機械の台数が少な過ぎ性能の良い戦車製造を行いたくても出来る状態ではなかった。
日中戦に莫大な戦費を費消し戦車開発へ回せる予算が少なかった。
戦車に造詣ある陸軍の高級軍人は僅かで戦車の重要性が認識されず開発が後手後手になった。
軍上層部の歩兵中心思想が正されなかった。
戦車に携わる専門エンジニアや研究者が少なかった。
戦車開発・製造のベースとなる自動車工業力が乏しくそれが戦車能力と生産量向上を妨げた。
発想力や想像力の欠如と陸海軍の犬猿の仲。前述の如何にもならない状態でも例えば海軍旧式高角砲を固定式に搭載する突撃砲タイプであれば米英軍の戦車を破壊出来る火力だけはナントカなった筈ですがそんな発想自体なくあったとしても海軍側がすんなりと旧式高角砲を陸軍へ譲渡してくれたか如何か・・之が実現していれば機動会戦では突撃砲は不利ですが待ち伏せ戦術に徹するのならば史実とは異なりかなりの戦果を挙げたと考えられます。

日本軍短機関銃について事実上100式機関短銃しかなかった理由としては

ボルトアクションタイプのライフル銃に比べ弾丸費消量が桁違いなので補給面から優れた兵器と捉えられていなかった。
弾丸生産能力から充分な生産を確保するとなれば他の兵器弾薬生産に支障が生じかねなかった、つまりは工業能力の低さに鑑みてタマをバラまく兵器を装備する訳にはいかなかった。
火砲もそうですが弾幕射撃で敵を制圧するよりも狙撃的射撃で敵を倒すのが陸軍の軍事思想で機関短銃はそうした思想に添うとは思われていない兵器だった。
機関短銃の有効性に着目為されていなかった(この点は軍上層部だけでなく実戦部隊もそうでジャングルでの遭遇戦が何度も発生した後に漸く必要性が理解されます)

戦車や機関短銃について極論してしまえば(技術的な問題その他も勿論ありますが)当時の日本国力、特に乏しかった工業能力に大半が起因すると結論づけて間違いではないでしょうね。

nig********さん

編集あり2007/10/2716:50:18

陸軍なんてのは、アメリカ戦を想定していなかった。

相手にしていたのは、貧弱な中国軍である。

中国軍相手には、あの程度の軽戦車でよいと陸軍首脳部が考えた、それだけのことだ。

戦車のエンジンなんぞは、戦闘機のエンジンを使えば、重戦車をかんたんに作れたのである。




日本で初の戦車用装甲板(ニセコ鋼板)が日本製鋼所製であったことはあまりにも有名ですが、初の戦車用量産エンジンは元はと言えば航空機用エンジンであり、航空機エンジンとしては初の国産エンジンであった事を知る人はまれでしょう。
この初国産航空機用エンジンの試作1号機は室0号と名付けられました。室0号は会社の試作品として残されていましたが、後に89式中戦車甲型のエンジンの原型として陸軍に渡されています。そののち97式戦車むの量産工場となった武蔵製作所に記念として移管され、戦後また室蘭製作所に戻るといった遍歴を重ね、室蘭市民族資料館を経て現在は日本製鋼所室蘭製作所の玄関に展示されています。



イギリスでは、
巡航戦車Mk.VIII クロムウェル(A27M)

戦闘機用エンジン「マリーン」を戦車用エンジンに転用する試みが良好だったため、車載向きに改良したエンジン「ミーティア」を開発し、クルセイダー(後述)の車体に搭載する計画がA27開発の始まりでした。

jjm********さん

2007/10/2714:20:12

帝国陸軍の戦車は同時代の各国のものと比べても悪くはありませんでした。
差がついたのは世界大戦がはじまり各国の戦車開発が急激に進展し主力であった九七式戦車だけが時代遅れになってしまったのです。
当時の日本は自動車産業が未熟で流れに追いつくのは難しかったのですが日中戦争の最中で陸軍の予算は戦費に回されとても戦車開発まで割けなかったという側面もありました。
それに日本陸軍はアメリカとの太平洋の小さな島では戦車を使う余地がなく中国やソ連との戦争が予想される大陸は西ヨーロッパのように道路網が整備されていないのでドイツのような電撃戦がおきることはないと想定していたので戦車開発を必要と見なさなかったのです。
太平洋戦争がはじまると戦車の生産ラインは陸軍の航空機のために転換されました。
航空機に重きを置くこの政策は誤りではなかったのですがいざアメリカの反攻が始まり戦車が必要となったときには九七式やその改良型が細々と造られ新型は試作車両の開発がわずかに製造されているという有様でした。
それゆえ現代では陸軍の首脳部は近代戦に無知だったと非難されているのです。
短機関銃に限らず対戦車用の携帯火器から歩兵部隊用の大砲まで白兵戦を重視していた割には日本陸軍の歩兵部隊の兵器は装備されなかったりあっても性能が今ひとつということが多かったのです。
理由としては技術的に劣っていたため開発できなかったり国力が低かったので充分な数が装備できないということがあります。
さらに日中戦争で陸軍の兵器の更新が停止していたという理由もありました。
一番の大きな問題はやはり兵器開発への陸軍の幹部らの認識が甘かったりしたことで折角、ドイツから供与され潜水艦で送られてきた突撃銃や携帯対戦車弾の試作品は日本軍には無用と間違った判断をしたようです。

onl********さん

編集あり2007/10/2714:09:02

予算が優先的に海軍に回されたからです。
そのぶん海軍は世界最大の戦艦を2隻、世界最大の空母を1隻建造している。
それに日本は島国ですから、頑丈で大型の戦車を造っても、
それを荷役できる船が少なかったし、船から下ろすのがまた容易ではない。
港にクレーンで下ろすのにもアームがひん曲がってしまったという話を
「日本の戦車」という本で読みました。

wat********さん

2007/10/2713:25:43

金も技術もない途上国だったからです。

よしんばあったとしても、指揮する上のお方に考える力がなかったのだから
あんまり変わらなかったでしょう。

あわせて知りたい

みんなで作る知恵袋 悩みや疑問、なんでも気軽にきいちゃおう!

Q&Aをキーワードで検索:

Yahoo! JAPANは、回答に記載された内容の信ぴょう性、正確性を保証しておりません。
お客様自身の責任と判断で、ご利用ください。
本文はここまでです このページの先頭へ

「追加する」ボタンを押してください。

閉じる

※知恵コレクションに追加された質問は選択されたID/ニックネームのMy知恵袋で確認できます。

不適切な投稿でないことを報告しました。

閉じる