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呉楚七国の乱の盟主、首謀者である呉王濞についての質問です。

kyo********さん

2014/10/408:07:31

呉楚七国の乱の盟主、首謀者である呉王濞についての質問です。

『秦漢帝国』 (西嶋定生著、講談社学術文庫) において、
・ 呉王濞は、高祖劉邦の兄劉仲の子で、高祖11年 (前196)、高祖がみずから淮南王英布を討伐したとき20歳にして従軍し、その功によって呉王に封ぜられたもので、その封地は三郡五十三城におよぶ広大なものであった。

と述べられています。

また、同書の劉邦の父・大公から始まる系図を見ても、劉邦の兄弟である「楚王交」という人物が系図に現れますが、劉仲については、単に氏名が載っているだけで「○○王」とか「○○候」という位がありません。

この文章と系図の情報をそのまま受け取ると、呉王「劉濞」が王位と封土を賜ったのは、「劉邦が帝位についてから11年も後のこと」であり、「劉濞の父は王侯ではなかった」という解釈になります。

一方で、故・司馬遼太郎先生の小説『項羽と劉邦』の中で、劉邦の皇后である呂后が、かつて劉邦が無頼漢同然の暮らしをしていた頃に、兄嫁からさんざんいじめられたことを怨みに思い、「あの兄嫁の血筋だけは王侯にしたくない」と劉邦に対して強く主張したため、劉邦も兄弟・一族を王侯に取り立てる時に、兄 (とその息子) だけはなんの沙汰も下さなかった。
けれども、劉邦の父があまりに懇願するために、ついに「呂后が怨みに思う兄嫁の子」も王侯に取り立てた、というエピソードを載せていました。

もしかして、『項羽と劉邦』のエピソードにある、「呂后が怨みに思っていた兄嫁の子」こそが、呉楚七国の乱を起こした呉王「劉濞」なのでしょうか?

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end********さん

2014/10/410:19:01

以下は『史記』からです。

『史記世家』「楚元王世家第二十」の記述によりますと、高祖(劉邦)は4人兄弟で長兄は伯、次兄が仲、弟が交とあります。
すると嫂は伯か仲の妻ということになりますが、仲の妻についての記述はありません。伯の妻については以下の記述が。
「伯は早く世を去った。はじめ高祖がまだ微賎のころ、ある事件で身をかくし、ときおり客と一緒に長兄の嫂を訪うて食事した。嫂は高祖の来るのを厭うていた。あるとき、高祖がまた客を連れて来ると、嫂はいつわって羹(あつもの)がなくなったかのよう、わざと釜のふちをこそいで、かつかつ鳴らした。そのため客は帰っていった。程なく釜の中をのぞいて見ると羹はまだ残っていた。こうしたことで高祖は嫂を恨んでいた。」
「高祖は帝位に即くと、兄弟たちを封じたが、伯の子だけは封じなかった。太上皇(高祖の父)が伯の子のためにとりなしたところ、『それがしは、あの子を封ずるのを忘れていたわけではありません。ただあの子の母親が邪慳だからです』と言ったが、結局、長兄の子信(しん)を羹頡(こうかつ)侯(羹頡は地名〔河北・懐柔〕。悪言を借りて寓意したものか)に封じ」(ちくま学芸文庫)
とありますね。司馬さんはこれを呂后に置き換えたのかもしれません。

また、これに続いて次兄の仲を代(だい)の王としたとあり、「荊燕世家第二十一」に、「12年、沛侯劉濞(高祖の兄劉仲の子)を立てて呉王とし、もとの荊の地に王とした。」とありますので、恨まれた嫂が伯の妻ならば、違うことになりますね。

系図についてはさまざまです。
(伯なし)
仲(喜)前193没ー呉王 濞前154没
高祖 劉邦前202~前195ー
楚元王 交前179没ー楚夷王 郢客前175没ー楚王 戊前154没
(縦組にして見てください)

このように作る系図もあります。仲に代王の記述がないのは不明ですが。

質問した人からのコメント

2014/10/5 17:29:22

驚く 系図もさまざま、というところが、単に古代ゆえに起きたことではなく劉邦という人物の出身階級の低さを表しているようですね…

故・司馬先生のエピソードについても『史記』などに掲載された話をそのもまま紹介したのではなく、史実を土台にした創作だったんですね…

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