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福島正則をはじめとする豊臣恩顧の大名は黒田長政など一部を除いて関ヶ原の時三成...

tom********さん

2014/12/1314:32:59

福島正則をはじめとする豊臣恩顧の大名は黒田長政など一部を除いて関ヶ原の時三成憎しだけで家康に味方したのでしょうか?

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tom********さん

2014/12/1316:08:13

肝心なのは三成「憎し」の原因ですよ。
単なるいがみ合いじゃないです。
三成は茶々の信頼厚い寵臣です。
茶々は高台院とは相容れない立場です。
清正正則は長浜城の台所飯を食いながら武将に成長しました。
高台院を実の母とも慕う間柄です。
武功は断トツだが平時の治世が苦手な武断派対武功が少なく治世の技のみの文治派。
荒くれ武将対知将という肌合いの違い。
そして秀吉亡き後の豊臣政権トップが淀殿になった時の武断派大名の用無し論。
それが影響しているんです。
三成の風下に立つことは廃棄されてしまうことだと。

茶々も秀吉の枕元で侍って、清正や正則の手を取って秀頼を頼みますと涙を流せばよかったのです。
高台院にきちんと遠慮して生活をすればよかったのです。
そしてそれを三成にもきちんと求めればよかったのです。
そうすれば秀頼の成長までの間を保てたかもしれません。

ベストアンサー以外の回答

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naz********さん

2014/12/1316:27:29

皆さんのご意見に付け加えて、三成は、利休切腹、秀次とその一族の惨殺、朝鮮の役での敗戦の責任の押し付け、武功の無さ等、憎まれる要素満載であるばかりでなく、初めての人にも心底憎まれる天才でした。

ben********さん

2014/12/1315:08:19

清正は、また考えもあるでしょうが・・・でも、結果加藤家の末路・・・
清正より考えのあるとは思えない正則は、まさに、長政に篭絡されたのだと思います。
秀頼の許可のない戦いなのだから、三成の私闘だと。
それくらいの効果があったればこその52万石と、少しくらいのお家騒動・赦免権(二度)と、細川と喧嘩しても見て見ぬふりしてあげる権です。

jtp********さん

2014/12/1314:58:22

三成憎しも理由の一つとは思います。ただ、それだけではなく、秀頼と家康を比べた場合の将来性や褒美への期待もあったと思います。

この時代は負けたら大名家は改易です。つまり万を数える部下とその家族を路頭に迷わせることになります。ですから、三成憎しの私情だけでついたとは思えません。

oda********さん

2014/12/1314:34:17

違いますよね、生き残りです。
どちらに付くかでその後の状況が変わるのですから慎重に考えて決めたはずです。

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