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沖縄守備軍の牛島司令官が知念半島の非武装化を提案 「沖縄戦で首里総司令部陥落...

nmb********さん

2015/2/1418:07:57

沖縄守備軍の牛島司令官が知念半島の非武装化を提案
「沖縄戦で首里総司令部陥落後の6月上旬に、沖縄守備軍の牛島司令官は、米軍に知念地区の非武装化を提案した。

バックナー中将に軍使を送り、バックナー中将もこれに同意した。日米合同で住民を誘導しようとした」

という話がありますが、その証拠というのはあるのでしょうか。


この話は、くだんの惠隆之介が、『正論』2008年3月号に書いています。

しかし、どうも、牛島司令官が提案しバックナー中将も同意というのは、惠隆之介が作り上げた話のような気がするのですが、いかがでしょうか


惠隆之介は、いろんな話をデッチ上げています

「天皇陛下の命令で、戦艦大和に沖縄への救援物資として、メンスバンドを積んだ。」。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1014078225...

「沖縄の米軍兵士集団レイプ事件の被害者は、中国の工作員なので、騒ぐだけ騒いだあとは、告訴しない。」

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1114103249...

ほかにも
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1214097531...
とか。

また、「非武装化を提案」もなにも
6月2日の時点で、知念半島の大半は、アメリカ軍がすでに制圧しています。
その制圧過程では、ほとんど戦闘は行われなかったとされています

(参考)
知念村史 第3巻などによれば、知念、玉城の戦死者の多くは沖縄戦初期の艦砲撃による。
知念村に配置された日本軍部隊は4月28日までに、首里援軍へと移動。
5月末の日本軍の首里からの敗走では喜屋武半島へ向かっており、日本軍の知念村への流入は、ほとんど無かったので、アメリカ軍との戦闘はなかった。

補足アンチ惠隆之介の立場で質問しておりますが
証拠に基づくものであれば、公平に判断することを約束しますので、
ぜひ、牛島司令官がバックナー中将と合意したという証拠があれば、教えてください。

いまのところ惠隆之介の書いたもの(証拠なし)しか見つけられません

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ベストアンサーに選ばれた回答

tan********さん

2015/2/1509:09:14

米軍との連絡、合意は、恵隆之介の捏造だと思われます。
米軍との合意は、住民の保護を米軍に要求するということですが、住民の投降を許さない日本軍が、そのような要請をするはずもないです。

首里撤退に際して、最後の防衛線を八重瀬岳と設定したことにより、日本軍が入らなかった知念半島が、(戦闘がないことによる)事実上の安全地帯化することになったのは事実です。

5月29日に、八重瀬岳周辺の避難住民を知念半島に移動させて、地下壕を食料なども含めて軍に明け渡すように、県庁に命令があったようです。
(日本軍の強権による避難民の地下壕追い出しもすでに行われていた。)

この辺りの事実を利用して、恵隆之介が捏造した物語だと思われます。
(これにより避難民の壕追い出しも美談にすり替えできる)

なお、本当の事実であれば、容易に証拠を示すことができる事項ですが、一切の証拠は提示されていません。

質問した人からのコメント

2015/2/20 06:49:30

みなさん回答いただきありがとうございました。
たいへん参考になりました。

「牛島司令官は、バックナー中将に軍使を送って、知念地区の非武装化を提案し、バックナー中将もこれに同意した。」というのは、惠隆之介の捏造の可能性が限りなく高くなりました。

ベストアンサー以外の回答

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bre********さん

2015/2/1612:30:15

2007年12月の講演会では「6月上旬に、米軍に軍使を送った」としていましたが、『正論』2008年3月号では、「五月二十八日 より以前に、バックナー中将に軍使を送った」と、変更されています。
この短期間での変遷がなにより、資料を元にした話ではないことを如実に表しています。

さらに
司令部の南部撤退は、日本軍内でも、その行き先を含め極秘として進められており、当日も豪雨の夜間を利用して行われました。
にもかかわらず「五月二十八日 より以前に」、アメリカ軍に「知念半島には行きませんからね」と撤退や撤退先を伝達するに等しいことをするわけがありません。
米軍は、5月30日まで司令部撤退に気づいていなかったとされます。

koe********さん

2015/2/1507:51:02

「恵」というのは奄美の姓氏。

琉球王国の一部であった奄美は、戦後、沖縄とともにアメリカ軍統治になったが、沖縄より早い1953年に本土復帰した(沖縄の本土復帰は、1972年)

奄美の本土復帰により、奄美に戸籍を置いた者は、アメリカ軍統治の琉球政府にとっては外国人と同じ扱いとなる。
外国人は公務員になれないので、琉球政府の公職からはずされた。外国人ゆえに公民権も大幅に制限された。
政治に翻弄されたことは同情すべきだが、外国人となれば致し方ない。

これを逆恨みした人や、その子供などが、今、「恨みを晴らさん」とばかりに、沖縄を孤立させる運動をしている。
つまりは、私怨ということです。

恵隆之介の他にも恵忠久も、同じ。

私怨を晴らすデマに、論拠はいらない。

不適切な内容が含まれている可能性があるため、非表示になっています。

投稿内容に関する注意

pap********さん

2015/2/1507:39:04

嘘つき薩摩人の妄想・捏造話です!

知念半島は24師団がいたが司令部は国吉にあった。
24師団はハーフムーン・シュガーローフに駆り出され、司令部から遠い知念半島から人員を引き揚げただけですよ、参考の通りです!
沖縄出身だと騙っているが、家族で沖縄戦体験者は一人もいない、その頃家族・親族は奄美大島で平穏無事に暮らしていた。
金のために奄美大島から米軍基地の周辺に渡ってきたのはこいつ自身の家族である。
それをまず始めに暴露して語らないのはなぜなのか?
こいつは自身の後ろめたさを隠すために沖縄県出身者に話を捏造して擦り付けている気持ち悪い薩摩人!

返信を取り消しますが
よろしいですか?

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bou********さん

2015/2/1422:14:01

一介の沖縄駐留軍の司令官でしかない牛島中将が、
大本営にも第10軍にも諮らずに、
敵将と独断で事を決める権限などありませんし、

ましてや第32軍がほぼ壊滅していた6月上旬に、
戦争を長引かせる様な提案を
バックナー中将が同意したというのも、
あり得ない話ですし、
彼とてそのような権限はなかったはずです。

例えば牛島中将が上部組織に
知念地区の非武装化を提案したいと打電して、
上部組織がそれを認めないと言う返信をしたとかいう
公文書や電信の控えでも残っていれば話は別ですが、

惠隆之介がそう断定するに至る
万人が納得出来るそれなりの根拠を提示しない限りは、
ただの捏造って事ですね。

返信を取り消しますが
よろしいですか?

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he0********さん

2015/2/1418:51:56

様々な沖縄戦記を読んできましたが、そのような話は聞いた事がありません。捏造です。

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