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大変興味深い説があります。 定説とはかなり違いますが説得力はあります。 神...

ama********さん

2016/2/1002:21:55

大変興味深い説があります。
定説とはかなり違いますが説得力はあります。

神武東征は阿波一国内でおきた出来事だという説です。その前に簡単に阿波忌部の祖神 天日鷲命について簡単に説明します。

「天日鷲命」(あめのひわしのみこと)
別名 天日鷲翔矢命(あめのひわしかけるやのみこと) 麻植神(おえのかみ)
天加奈止美命(あめのかなとびのみこと) 天日別命 (あめのひわけのみこと)

阿波忌部の祖
伊勢/伊賀国造の祖

まず出雲大社上官家富家の伝承によると天村雲命の海部氏系(紀氏、阿波忌部氏、尾張氏、多氏など同族)と才の神信仰の大国主、事代主の出雲族が、天村雲命を初代王(神武)として倭の国で王朝を開いたそうです。
この才の神というのは俗に言うクナト神、岐神という神であり、阿波に異様に多く祭られておりその数2000を超えるともいわれています。かつて阿波は出雲族が多く住み着いたとの伝承があります。

海部氏の系図の中に天村雲命が見えますが伊勢神宮の神官家である度会氏の系図では天村雲命の孫は天日別命となっています。

『 先代旧事本紀・国造本紀 』では、饒速日命( 物部氏の祖 )の孫が 天村雲命 で、
そのまた孫が、 天日鷲命 (阿波忌部氏の祖) とされる。
また同書には、天村雲命は、伊勢神宮の度会神主、等の祖、と書かれています。
この天村雲を祀る神社は日本一社 式内社 阿波國麻殖郡 天村雲神伊自波夜比賣神社二座(論社)
天村雲神社です。全国3132座ある式内社で、「天村雲」を冠する唯一の神社です。

また伊勢神宮の根本経典『 神道五部書 』によると天村雲命 伊勢大神主上祖也、神皇産霊神六世の孫也 阿波國麻植郡座忌部神社、天村雲神社、二座是也
つまり阿波國に座す二社が皇祖皇統の正統なる末裔であると記してあるのです。
内宮、外宮、両宮の御鎮座当初より忌部氏が祭祀を司っていたのはまぎれもない事実であり、6世紀に中臣氏に内宮が取って代わられるまでその地位は安泰だったのです。
渡会氏がここまではっきりと国名、郡名を出して、その起源を主張するには、並々ならぬ事情があったことと思われます。

次に天日鷲についてですが、

「国造本紀」では、「海中に浮ぶ者あり。何者ぞやと、乃ち粟忌部首の祖天日鷲命を遣わす・・」と、椎根津彦を神武軍に引き入れるシーンにも登場し、「伊勢国造。橿原の帝[神武天皇]の御世に、天降る天牟久努命の孫の天日鷲命を勅して国造に定められた」と、伊勢国造となったことが記されます。

忌部神社の社記『天日鷲宮縁起』には、長髄彦を討伐するために天日鷲命が金鵄と化して賊軍はその威力に恐れ退いたとかかれています。
「金鵄」とは「金色の鵄(トビ)」のことで、平田篤胤は古事記伝で「天加奈止美命」(あめのかなとびのみこと)の別名を持つ、天日鷲命のことと断定しています。

この金鵄と古事記の八咫烏は同一とされます。

下鴨神社HPを見ても、
『古事記』『日本書紀』には、賀茂建角身命を金鵄八咫烏(きんしやたからす)として
表わされた御功績が伝えられているとおりと記されています。

古語拾遺には『天富命をして天日鷲命の子孫を率いて豊饒の地を求めて粟国に遣わし、穀麻の種を殖えしむ』と書かれています。

この天日鷲の末裔、阿波忌部氏とはの神話・伝承をまとめた『古語拾遺』や平安時代の法令書『延喜式』などによれば、天皇の即位儀礼である大嘗祭に際して、麁服という布を献上したと記載されそれは現在まで続いています。

さて天富命の名前が出てきましたが天富命が神武帝に宮を造営したのが樫原の宮 その神武天皇を祀る神社が樫原神宮以外で阿波の地にあるのです。

その名も「樫原神社」が鎮座します。社紋はもちろん十六弁の菊
土成村史によると、明治三十二年山岳崩壊によって神殿・樹木が埋没し現在地に仮殿を建てたとされます。
奈良県橿原神宮が建立されて後のこと、この峯で大爆発の如き音響とともに山崩れが起り、この神社、谷の中に埋もれてしまいましたが、村民が掘り出し再建されています。
ちなみに奈良県に「樫原神宮」が存在しますが、こちらは明治23年の創建です。

阿波の樫原神社は創祀年代は不詳ですが、往古より祀られていました。
地名もまた「樫原」で、すぐ東隣の地名が「御所」で、そのまた東が「熊野」です。
その南が「吉野」になります。
古事記によれば神武天皇が八咫烏に導かれ「吉野川の川尻に至るとき」(原文は、到吉野河之河尻)、とありますが、「河尻」とは川の下流・河口のことで、奈良県の吉野川には当てはまりません。
なぜなら下流は和歌山県に流れ込んで「紀ノ川」となっているからというのです。
奈良の吉野川が、阿波の吉野川にちなんでつけられた後付けの名前としています。

また椎根津彦(うず彦)を速吸門で神武軍に引き入れる速吸門とは定説では豊予海峡ですが阿府志によると鳴門海峡だと書かれています。

入力数が不足ですのでまた後ほど

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mei********さん

2016/2/1006:42:47

・・・・・で、質問は何ですか?
知恵袋は、疑問や質問を投稿するための場所ですよ!
質問を伴わない、特定の相手との会話の投稿は「おしゃべり、雑談」→「雑談」のカテゴリでお願いします!!
投稿ルールは、お守り頂きますようお願いします!!!

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  • 質問者

    ama********さん

    2016/2/1010:45:11

    文面が不足しているので質問はこれからです。しばしお待ちを

返信を取り消しますが
よろしいですか?

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ベストアンサー以外の回答

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taj********さん

編集あり2016/2/1619:45:53

神武東征伝説のモデルになったのは『プレヤマト王権内の内戦』ではと考えています。日本史上の実例として室町幕府初代征夷大将軍足利尊氏率いる北朝軍は南朝軍と畿内での戦いに敗れ西国九州に敗走し九州中国四国地方の武士逹を纏め上げ瀬戸内海を東上し南朝軍を撃破し畿内を奪還した実例が存在します。神武天皇のモデルとなった古代の武将も畿内での反対派勢力との戦いに敗れ西国に落ち延び九州中国四国地方の有力豪族連合軍を率いて瀬戸内海を東上し畿内を奪還したと私は推測します。極端な表現を許して頂けるならば古代版西軍(プレヤマト王権神武派西国豪族連合軍)VS東軍(プレヤマト王権反神武派畿内豪族連合軍)と言う図式になると考えます。私自身、古代史に興味津々ですが知識が余りにも浅い為.足利尊氏の九州大返しパターンを思い浮かべました。足利尊氏だけでは無く平家も畿内から撤退して西国で勢力を蓄え畿内奪還を目指しましたが平家の場合は源義経率いる鎌倉幕府平家追討軍に敗れ畿内奪還に失敗しています。ただ阿波出身の豪族天日鷲命が神武東征で果たした役割はとてつもなく大きかったと私は考えます。天日鷲命は反神武派畿内豪族連合を調略で切り崩し長髄彦との決戦では膠着状態の最中に神武側の援軍として戦場に駆けつけ饒速日命等の反神武派首脳部に長髄彦からの離反を決断させ神武東征軍を勝利に導き恩賞として畿内(大和)の東側玄関口伊勢国を与えられています。天日鷲命の元々の支配地域阿波国は畿内(大和)の西側海上からの玄関口ただの偶然では無いものと私は考えますので質問者様の神武東征阿波説も当たらずも遠からずと考えます。天日鷲命は服飾関係の神様服飾関係を得意とする古代の豪族で思い浮かぶのは『秦氏』天日鷲命のモデルとなった古代豪族は秦氏ではと考えます。神武東征を『古代版壬申の乱』と考え神武天皇を大海人皇子に置き換えると点と点が一本の線に繋がる様な気がします。

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