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天理教について質問です。 1) 教祖は精神を病んでいたのか。 親様=教祖=中...

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ID非公開さん

2016/3/1218:26:48

天理教について質問です。
1) 教祖は精神を病んでいたのか。
親様=教祖=中山みき は精神を病んでいたんでしょうか。
精神を病んでいたなら、それはいつ頃からですか。

狐憑き=親神様が憑依した時からでしょうか。

2) 中山家は貧乏人に施しをして凋落したのか。
中山家が貧乏人に施しをして、自分たちが貧乏になったのか。
投機相場に手を出して大損したんでしょうか。
元から貧乏だったんでしょうか。

3) 座りづとめ、12下りなどは誰が、天理教神話はだれが考えたのですか。
中山みきが考え出したとは思えない。憑依中(精神錯乱中)に何か口走ったかもしれないが誰かがそれをまとめて整理しないと御手振りや座りつとめの形式にならない。楽譜や振付、歌詞は誰が考えたのか。

天理教神話は誰が考えたのか。
全て中山みきが考えたのか。そんなはずはない。だれか参謀的な人がいたのですか。

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blu********さん

2016/3/1223:53:30

1: 中山みきは、1798年 (寛政10年)4月に、大和国山辺郡三昧田村で生れた。現在の奈良県天理市に属する。父は、当時34歳の前川半七(正信)で、母はきぬ(当時26歳)であった。
前川家は、豊かな家柄で、20戸(2百石)の庄屋であった。藩から一代限りの無足人という、武士に準ずる身分をあたえられ、近所の村を含めての目付役をつとめていた。名字帯刀を許され、具足、鎗、鉄砲各一と下人数人を持っていたといわれる。また、大和神社の総代でもあった。要するに、農家というより武家に近く、郷士層に属する地方の有力者であった。
彼女は7歳頃には、父から文字を習った。9歳から11歳までは、近所の寺子屋に通っていたといわれる。また、10歳の時には、母が唱える和讃を聞き、暗唱したこともあった。後の彼女の話によれば、幼い時に、彼女は人の前にはあまり出ようとしない、陰気な少女であった。また生来身体もあまり丈夫ではなかったという。


中山家は、耕作地主で、藤堂藩領三十余戸(300石)の庄屋をつとめ、十数町歩の田畑山林を所有していた。綿屋とよばれて綿の仲買もしていて、使用人も多いときには20人ほどであって、かなりの収入のある豪農であった。

夫の善兵衛は、怠惰て不身持ちな生活をしていた。彼女は、夫とのあいだに何の心の触れあいも感じない毎日を送るようになった。みきが、嫁いでしばらくしたころ、夫は妾をかこい、下女にまで手を出していた。

江戸時代、大和地方の農村は浄土宗の地盤で、村ごとに念仏講があり、念仏踊りや和讃の集まりが盛んであった。みきの実家である前川も浄土宗の熱心な壇家で、その菩薩寺は丹波市の迎承寺であった。両親は朝夕、仏前に回向頂礼を欠かさず、この寺への参詣もおこたらなかった。幼いみきも両親と一緒に念仏を唱え、「浄土和讃」を聞き覚えていた。たとえば、その内容は、「沙婆世界は厭ふべし、厭はば苦海を渡りなん、安養界をば願うべし、願はば浄土に生るべし、草の奄は静かにて、八功徳池に心すみ、夕べの嵐音なくて、七重宝樹にわたるなり」というようなものであった。
彼女は、19歳の時には、中山家の菩提寺であり壇家であった善福寺で「五重相伝」を受けた。五重相伝とは浄土宗の奥義をきわめた篤信者に授ける儀式で、7日間5回にわたって勧請聴聞をし、その上で剃度式(おかみそり)を受け、秘密の伝法を口伝で頂くものである。彼女は、1816年春、勾田村の浄土宗・善福寺に入り、そこの住職、報誉上人からその秘密の伝法を貰った。当時みきの戒名は「連誉勝岸智宝禅定尼」であったという。仏教とりわけ浄土宗からの深い影響が窺われる。


しかし、浄土宗の彼岸主義に中山みきは次第に失望していき、現世での幸福を求めて、仏道から離脱する。

夫の善兵衛との冷え切った生活、仏道に絶望し仏道から離脱してから精神的支柱を失い、徐々に精神が蝕まれていった。

そして、長男・秀司が米と綿の相場で失敗し、家ごと借金してしまい、ホームレスとなり、全てを失った中山みきは、絶望に陥った。その後は1と2の説を自分的にはあげる。

1:現在で言う統合失調症になり、幻聴により、加持祈祷の際、加持役となった中山みきの頭の中に神の声を聞き、祈祷者の問答に答えた。

2:中山みきは浄土宗の教義の全て(全てのお経を記憶し暗唱できる能力も含めて)を記憶し問答で正確に回答できなければ授与されない五重奏伝を授与できたほどの高度な知力を有していた。その知力は子孫に遺伝された。その知力を持って民衆をだまし、金儲けをした江戸時代の金儲けの天才であった。

2代真柱の中山正善(1905年-1967年)は東京帝国大学卒業。
3代真柱の中山善衞(1932年 - 2014年)は慶應義塾大学卒業。
のいずれも超知的エリートである。

特に中山正善の時代に東京帝国大学を卒業するのは努力だけでは無理。知力が相当に高かった事になる。中山善衛もしかり。

さらに言えば、天理教では”阿呆になりなさい”と信者に教えてるが、
それは、信者に考える時間を与えないためである。

その高度な知力を持って、中山みきは現状のホームレスの状況を有利にする策をとった。まず、産婆としての職人的能力のあった中山みきは「おびや許し」と安産請負をうたい文句に高々と宣伝していった。しかし、現代でも産婆での自然な分娩をする妊婦はいて、医療事故は聞いた事がない。天理教の主張する江戸時代の出産は致死率が非常に高かったは嘘である。現代の学者の推定では、江戸時代中期・後期を通じて、日本の人口は約3000万人前後であった。江戸時代前期の外様大藩の領民人口変遷をみてもどの藩も人口は増えてる。

安永3年(1774年)の段階で杉田 玄白はオランダ語医学書『ターヘル・アナトミア』を和訳し「解体新書」を刊行してる。

また、天理教で朝夕に「あしきを払い助けたまえ~」と唱えて手を振る儀式を「おつとめ」と呼んでるが、元々「おつとめ」とは仏教の勤行(仏前で読経する)の事をさしてる。中山みきが信仰していた浄土宗のHPにも「おつとめ」と書いてある。
http://jodo.or.jp/jodoshu/okyou/index.html

中山みきは本来は浄土宗善福寺の熱心な信者だったが、自身が神道の教組になってからは、仏教から用語や思想を盗んで教理に取り入れた。

「撒いた種は刈らねばいけない」は天理教のオリジナルではない。

英語圏のことわざに

As you sow, so shall you reap.《蒔いたように刈り取るべし》[聖書:ガラテヤ人への手紙6-7]= Whatsoever a man soweth, that shall he also reap.《蒔いたものは刈らねばならない》というのがある。また、「因果応報」「自業自得」は仏教用語である。

2:天理教中山家は実際は、長男・秀司が米と綿の相場に手を出して大損をして滅んだ。この事実を隠蔽して歪曲し、貧しき者に土地屋敷家財を全て売り払い貧に落ちきったと天理教は嘘をついてる。

「日本の10大新宗教」(幻冬舎)という本の中に、書かれている。

特に現在の教団の重要な教えであるとされる「月日のやしろとなられた教祖は、親神の思召のまに/\『貧に落ち切れ。』と、急き込まれると共に、嫁入りの時の荷物を初め、食物、着物、金銭に至るまで、次々と、困って居る人々に施された。」という『稿本天理教教祖伝』の記述は、八島のみならず、島田も『日本の10大新宗教』の中で、早川も『天理教
・その堕落と悲劇』の中で、実際はみきの長男・秀司が米と綿の相場で失敗し、家ごと借金してしまったが、教団は後にその事実を湾曲化して、信者から金を取ろうしたため「貧に落ちきれ」という思想が生まれたと指摘している。

宗教学者の島田裕巳
元天理教本嬬原分教会会長の八島秀雄
早川 和廣(新興宗教問題も手がけるライター)

3:2の質問で2の説をとると泥海古記などは中山みきが書いた。

最初に産みおろされたものは、一様に五分であつたが、五分五分と成人して、九十九年経つて三寸になつた時、皆出直してしまい、父親なるいざなぎのみことも、身を隠された。

その後、人間は、虫、鳥、畜類などと、八千八度の生れ更りを経て、又もや皆出直し、最後に、めざるが一匹だけ残つた。

奈良県天理市が人類発生の地である。

神秘性で呪縛する目的で意図的に書いたのだろう。



また、週刊文春は過去に「天理教本部賽銭箱は地下室のベルトコンベアーに直結してる」という記事を書いたが、天理教側は訴訟を起こさなかった。事実だから起こせなかった。豊文分教会が分離独立したときには、”天理教”という”商号”を使ったとして天理教本部は訴訟を起こしたが敗訴した。

4補足

天理教は悪名高い真光とつながっている。
まず、大本教の出口王仁三朗が、大本教が本来祭り上げてる神の隣に中山みきを神として祭り上げた。
大本教信者の岡田茂吉が分離独立し世界救世教を創設。
同時に大本教信者の谷口雅春が生長の家を創設。(数年前に約8千億円の資産をブラジルの銀行にレアル建てで移管)

世界救世教秀明教会が分離独立して神慈秀明会を創設。

世界救世教幹部だった岡田光玉が世界真光文明教団を創設。

岡田光玉死後、後継者争いで、岡田恵珠が崇教真光を創設。

生長の家は書籍販売で儲けてるが、後は悪名高い、浄霊や手かざしの金巻上げ集団。

●明主様御講話(岡田茂吉が天理王の命を地獄に落ちたものと言っている)

ここに伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の子供で五人としてあるがもう一人ある。

もう一人というのは伊弉諾尊と言う神様は国常立尊になるんですね。

息子に国武彦尊(くにたけひこのみこと)と言うのがありそれが一番長男になる。

当時大将軍と言い勇猛でかなり勝手なことをやっていたその罪によって、言わば地獄に行かれたようなことになる。

一番末が初稚姫尊(はつわかひめのみこと)と言い、これが天理教祖の中山みきとなる。

そういうようにいくども生まれ変わっている。大将軍の妹になる。

そこで霊界で地獄と言ってもふつうの人間と違います。

修行するんです。修行した結果、大いに世の中のためになろうと言うので天理教祖の中山みきに憑った。

それで中山みきに最初憑ったのは夫の大将軍が憑ったんです。

そういう因縁なんです。

そこで最初のうちは力がありますから病気治しもさせたが、その力によって良く病気が治った。

それで最初は病気治しで世の中に出たんです。

天理教の本体を書くことは天理教に悪いですからそこで書かなかった。

http://www.geocities.jp/shumeic3/oomoto2.html



天理王の命という弱い者いじめ専門の神も、「神の社にならなけれ

ば、屋敷もろとも(お前らを)木っ端微塵にする」と恫喝し暴力と力でねじ

伏せ中山家を支配したが、本当に清き正しき神ならば、自分よりはるか

に弱い者を暴力で力でねじふせ支配するような事をするだろうか?

世界一列助けたいなら、徳川将軍を暴力で力でねじふせれば一番の

近道のはずであるが、徳川将軍には勝てないからできなかった。

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    質問者

    ID非公開さん

    2016/3/1301:20:58

    中山(前川)みき は幼少のころから秀才で頭脳明晰であった。親神様の憑依現象も芝居であって、詐欺師であった可能性も否定できない。
    もっとも、家庭の不幸で統合失調症になった可能性は否定できない。

    中山家は投機で破産したが、それを美談に仕上げた。

    天理教の教えは中山みきなど中山家住人の頭脳から発した。もっとも、浄土宗からの引用ではあるが。


    bluekeyakiさん 纏めるとこんなとこでしょうか。
    けど、よくご存じですね。貴方は天理教の教会長やその関係者ですか。

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