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大乗仏教「仏帰依」の完成について この文章をどう思われますか?

nom********さん

2016/4/1016:40:20

大乗仏教「仏帰依」の完成について

この文章をどう思われますか?

大乗仏教「仏帰依」の完成について

釈尊の入滅という厳粛な出来事を突きつけられてサンガは否応なしに「法帰依」を選択させられます。釈尊を直に知っている人が少なくなるとウパグプタ(北伝、付法蔵第4祖)のような優れた比丘は「仏」のいない仏教に耐えられず「仏帰依」をもとめ、どうしようもなくて悪魔に頼んで「釈尊」を「示現」してもらったりします。
時間がたてば優れた比丘はさらに「仏」恋慕の感情を高揚させますが「無余涅槃」(虚無の直証)という厳粛すぎるくらい厳粛な壁は当然越えられません(超えられないことは彼らが一番よく知っています。
「仏」恋慕の対象を「釈尊」から「他方仏国土の現在仏」に移して「仏帰依」を実現し、ここに「大乗仏教」が成立します。
虚無を直証した(=無為法となった)「釈尊」は礼拝や供養の対象にはなれません。(ちなみに大日如来、阿弥陀如来、観音菩薩、不動明王等々は全て「現在仏」です。有為法の領域に居ます。永遠ではありません。無常を示現します。だからこそ礼拝、供養する意味があります。)現在仏信仰が完成するのは弘法大師空海です。教主を大日如来として「釈尊」のいらない仏教をはじめて(?)完成させたのです。
以前から釈尊のような菩薩行を終えた等覚、妙覚の如来が何ゆえ菩薩行でもっとも忌避される無余涅槃の直証を行ったのか?
疑問だったのですが無余涅槃は「示現」しただけだと理解して会通できました。
「無住處涅槃」の中で「無余涅槃」を「示現」したのは後世のサンガに無意味な過去仏への恋慕を捨てさせて現在仏への恋慕に転換させる為です。

野村懐忍(高野山東京別院執事)俗名 一郎

http://jiyudaigaku.la.coocan.jp/2010/butudou10.htm

釈尊,帰依,恋慕,ウパグプタ,大乗仏教,魚川祐司,アラハン

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vai********さん

2016/4/1621:54:56

何なの???

このシリーズは、aksobhyavajraさんの自問自答(自作自演)なの?

こんなことして何が楽しいの?

有名になりたいの?

自論の布教をしたいの?

いみがわからない

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iam********さん

2016/4/1704:51:18

悪魔との対話「雨期明けの集まり」の冒頭で

お釈迦さまは500人の比丘サンガ(全員アラハン)に、ご自身の「身体の行い、言葉の行い」について避難されるべき点があるか?と問いかけた後、サーリプッタ長老が非難されるべき点はないと返答し、サーリプッタ長老もお釈迦様に対して同じ質問を聞き返しています。この点から、お釈迦様在世時のお釈迦様とサンガの関係、少なくともアラハンとの関係は師でありまますが、水平な関係にあったということができます。

入滅後はアラハンの頭数が減ることを想定・懸念し、先輩(アラハン)・後輩の関係を厳格にするように指示したのだと思います。アーナンダ長老もマハーカッサパ長老の厳しい指導を受けていたのでしょう。

aks********さん

リクエストマッチ

2016/4/1702:24:35

続き。

村上専精博士vs釈尊

村上専精博士の「大乗非仏説」。
「大乗は仏説ではないとする積極的な証拠もないが、大乗が仏説であるとする確かな証拠も見出せないのであるから、歴史的に見る限り、大乗非仏説論に賛成せざるを得ない」
テキストで立証できない、学者の妄想・信仰・願望。

釈尊「私はビク・サンガの師ではない、ビク・サンガは私の弟子ではない」
『ディーガ・ニカーヤ』で立証できる。釈迦牟尼世尊金口の教勅。


複雑怪奇vs単純明快・端的歴然!!
右顧左眄、後ろめたくてビクビク・オドオド、姑息・怯弱、間違ったこと=ウソを言わないといけない人間と、蓋天蓋地「宇宙が自坊」正々堂々、正しいことを言えばよい人間の差が歴然!!
3歳児でも分かるだろう、賽銭泥棒・下着泥棒と刑事みたいなもの、刑事は「窃盗の現行犯で逮捕する!!」と言えばよい。
正しいことを言うのは言える者、迷い・疑いの無い者、全宇宙の当事者、傍観する物が一つも無い者にとっては「お気楽」、
迷い・疑い、例外がある者にとっては「陰鬱」。

「大乗非仏説」は「定説」???だったら何??

「正しい」と言うこと

「社会科学的認識は厳格である、自然科学的認識は厳密である、哲学的認識は厳粛である」ハイデッガー(記憶)。

「定説」なんてものは所詮、多数決であって「正しさ」の根拠は全くない、同様に「常識」「正統」「中村元」等々が正しく「非常識」「異端」「aksobhyavajra」等々が間違ってるわけでもない、頭数が多かろうが少なかろうが、ノーベル賞学者が言おうが、ハイデッガーが言おうが、通行人が言おうが、

「正しい」ことが正しいのであって「間違ってる」ことは正しくない。

魚川祐司氏「厳格な無我説」!!「正しさ」とは「厳格さ」である??魚川先生ご乱心!!ミャンマーボケ恐るべし!!
中村元は正しいか?
>ナンダのエピソードは渡辺照宏『新釈尊伝』には2ページ書いてあるが、中村元『ゴータマ・ブッダ』には一行しか書いてない
>ナンダは方便で出家させられたと言う伝説がある(記憶)。
資料・情報を羅列しておいてくれるのが一番良い、判断しなくてよい、ああいう頭は回転しないときが一番結果がよい、合理性のフィルターを通さなくて良い、中村元先生よ!頼むから寝ていてくれ!!
『ゴータマ・ブッダ』というガラクタの山を見ると「合理的仏教研究」がいかににバカげているかよくわかる(倶胝竪指は妄語得上人法である!!の知的障害者振りにも注目されたし!!『シナ人の思惟方法』)。

魚川さん「倶胝竪指は妄語得上人法である」は間違いでしょ?東大印哲で「禅語録」を専攻した『仏教思想のゼロポイント』の著者、合理的・論理的が売りの魚川祐司氏はこのハードルが越えられるか?
私が回答で魚川祐司氏によく言及するのは私が魚川「老師」の『臨済録』提唱をほんの3,4時間だけど聞いたことがあるから。「適来」という字を「せきらい」と読んで「あなたはよく勉強してる」とほめてもらいました。親愛なる魚川先生!!ミャンマーボケ、外道ボケ、冥想ボケを治してホンモノの仏教を勉強しましょう。

テーラワーダと釈尊の関係はテーラワーダの側からはいい年のジジイ(私のような)が「おしゃかさま」などと媚びてぶら下がって飯のタネにしようと必死だけれど釈尊の側から言えば2500年前から(厳密には初転法輪から)「信仰を捨てよ」という師の指示が実行できず「知者信仰」を捨てられず「知者の振る舞い」をやめられず「愚痴・凡夫」に還れず、初転法輪以来現代まで仏弟子だったことが一度もない。蜘蛛の糸は「切った」のではなく「切れた」のである。
釈尊在世の時代を生きながら仏縁を結べなかったのは「自己責任」である。

釈尊は自分の死によって「仏灯明・仏帰依」が絶たれる娑婆世界の愛する衆生・憐憫する凡夫、仏弟子のために、何を残したのか?ということ。

「法灯明・法帰依」「法」を残したのだ、と言うのがvairocana_06さん

「仏灯明・仏帰依」「現在仏信仰」を残したのだ、と言うのが私。

vairocana_06さん大乗仏教「仏帰依」の完成について この文章をどう思われますか?aksbhyvjr の方へのご回答。
>「仏」恋慕の対象を「釈尊」から
>「他方仏国土の現在仏」に移して「仏帰依」を実現し、
>ここに「大乗仏教」が成立します。

zzzサンガの破門の視点を加えれば、釈尊自身が存命中に他方仏国土の現在仏信仰を説く『大無量寿経』や『阿閦仏国経』娑婆世界に現在仏を説く『華厳経』を説いている、仏教は大乗しかないのだから、娑婆の仏教の初転法輪は『華厳経』です。

違います。
法華経では釈迦を「久遠実成の釈迦」として、「釈迦」のままで「永遠の仏」として見ています。

zzz「として」と「ままで」が矛盾する、有為法と無為法は半々で並列しているのではない。
有為法は無限大、無為法はゼロ、無限大と「点」の間に境界線を引けない。
恣意的な言語の領域(無為法)と阻害性を持った因果律を変えられない現実(有為法)を都合よく雑乱できない。

久遠実成の釈迦は今でも娑婆世界で説法し続けています。

zzz無情は説法している、だけど凡夫には聞こえない、「唯仏与仏」凡夫の参加(参学・参究)できない世界は妄想でしかない。
あなたは聞いたことがあるのか?なんて言ってた?如是我聞xxxxx?????
釈迦はすぐそばにいるのに、悪業因縁にとらわれた者にはそれが分からない。心のまっすぐなものは釈迦を見いだすことが出来る。と書かれています。

zzz書かれています??悪業因縁と真っ直ぐな心!!あなたらしくない月並みな説明。「すぐそば」って何??まだるっこい!!
真言宗なら「あなたの心月輪に釈尊がいるのか!!」で終わり。
有名な問答(曖昧な記憶)
江戸時代、禅の老師と浄土宗の若い坊さんが問答した。
禅「阿弥陀如来は何歳ですか?」浄「私と同い年です」禅「あなたは何歳ですか?」浄「阿弥陀如来と同い年です」禅「この瞬間、阿弥陀如来は何処にいますか?」その坊さんは右手を胸の前で握り、少し上へ上げた。禅の老師はその坊さんの徹底した信仰にびっくりした。

>虚無を直証した(=無為法となった)「釈尊」は
>礼拝や供養の対象にはなれません。
これも違います。
多くの寺院では日常的に釈迦を拝んでいますし、また、涅槃会、灌仏会、成道会などの行事をおこなって釈迦を供養しています。
zzzこれはかなり深刻な間違いを犯してるかも知れない。無為法にも「名称」はある、有為法を尽くす方便として名称・言葉は機能するかも知れない、普遍的・抽象的・無為法の「無」を思惟・冥想しても永久に空回りだが、方便を付けて「州曰く無」にして「参学・参究」=「煩悩・凡夫」が参加・かかわれれば悟れる??いずれにせよ有為法の領域で具体的・具象的な行為・儀礼を実行すること「南無阿弥陀仏」「南無釈迦牟尼仏」と声を出すことが大切でしょう。

>教主を大日如来として「釈尊」のいらない仏教
真言宗の寺院でも常楽会などやっています。釈迦の要らない仏教なんて仏教ではありません。
zzz3歳児はかわいいけれど親にすれば立派に成人してもらわなければ困る。
「仏灯明・仏帰依」の教え=仏教が進化して釈尊を曼荼羅上の「一」現在仏とするようになることを釈尊は願っている。

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テーラワーダ=ビク・サンガの凡夫・煩悩からの差別化、哲学・宗教の経済学化。

①悟りの解脱化。
「悟り」とは凡夫が非凡夫を通過して而非凡夫になること、或いは凡夫が横越(横にシフト)して而凡夫になること。
「解脱」とは凡夫が非凡夫になること。
在家・凡夫にとって而非凡夫や而凡夫は元に戻ってるから違いが分からない。
非凡夫は在家・凡夫との差別化・コントラストが大きく、難しい顔してストイックパフォーマンスしていればバカ在家は聖者だと思ってお布施をくれる。

②如実知見の涅槃化。
如実知見の特徴は「無我・無常・苦」涅槃は「無我・常・楽」。
「無我・無常・苦」は在家にとってネガティブ過ぎて目標として俗受けしない、「無常と苦」を「常と楽」に替えて俗受けを狙う、「無我」を「我」にすれば更に俗受けするが外道になってしまう!!外道では失うものが大きすぎる「世知弁聡」釈尊を飯の種にするため「無我」は残しておく、仏教が「常・楽」なんておかしいじゃないかと言われたとき「無我」がありますから仏弟子ですと言って釈尊人気にぶら下がる。

生死即涅槃とか煩悩即菩提、一如、不二では飯の種にならぬ、聖と俗を離す、分ける、区別する、差別化する、コントラストをつける、そうして飯の種にする。

凡夫・煩悩の傍観者となる⇒こじきで食えるが悟れない。
凡夫・煩悩の当事者となる⇒こじきで食えないが悟れる。

悟りや救いなんて端から考えてない、食えればよい。
テーラワーダの教理は宗教でも哲学でもない、経済学。

だから破門、だから外道。
経済学で悟る??経済学で不死の門を開く??
アホか!!

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gre********さん

2016/4/1107:39:28

現代人の感覚でも、リアリティをどちらに感ずるかと問われれば、空想上の仏である大日如来や阿弥陀仏ではなく、歴史上に実在した(今は居ない)ゴータマ・ブッダ(釈迦牟尼仏)だと思うんですよ。

昔の仏教徒もたぶん同様で、大日如来を祀る宗派と阿弥陀仏を祀る宗派は主流には成りませんでした。それが現代まで続いており、「仏教と言えば、ゴータマ・ブッダの教えであり、釈迦像を拝む宗教」という理解が、世界レベルの”常識”なわけです。

ご存知のように、大日如来を立てる密教は中国では滅亡しましたし、あまり知られていませんけど、インドネシアやミャンマーでも滅びました。

チベットでは、封建主義と密教が合体し、宗教的権威でもって民を支配するシステムが構築され、貴族層=高僧となりましたし、地理的に隔絶した土地で、タイムカプセルの中で保存されるように密教が残っただけです。

※チベット人200万人くらいと、日本の密教系信者数百万人しか、大日如来を根本仏と見做している人は居ません。また、チベット仏教では大日如来よりも観音菩薩信仰の方が人気があります。

阿弥陀仏信仰は、世界に広く見られる「お救い信仰」の一種で、「拝めば救われる」という庶民層には取っ付きやすい教えでしたので、中国でも生き残ることができました。

宗教も社会と無縁ではないですから、社会状況を反映して、その社会に不足しているコトを、人々は宗教に求める傾向が強くなるわけでして、中国人社会は古代から修羅の世界でしたので、「正しいことを実践することを勧める、面倒くさい釈尊の教え」よりも、「拝めば救われる。現世利益がある」という信仰の方が人気が出やすかったと思われます。

中国では、女神が好まれる傾向があり、観音菩薩を女神と見立て、観音信仰は実質的には女神信仰に変化してしまっています。

救世主信仰と見做すことも出来る弥勒仏信仰は、中国人が好むふくよかな体型を特徴とする布袋信仰と習合しまして、今でも人気のある仏さまです。

しかしながら、台湾や東南アジア地域の華人の仏教の実態を見ますと、やはり「拝めば救われる」という信仰形式はありますけれども、それに魅力を感じないのが現代人なのか、瞑想や八正道や慈善活動を重視する宗派が人気があることが分ります。

衣食足りて礼節を知る、という中国人が作った金言ではないですが、豊かになった中国人は、精神的な豊かさを求める段階になっていると思います。

八正道を重視する姿勢は、実は「他者にも八正道が示す正しい生き方を求める」感情と表裏一体です。

平和が基盤にある成熟した社会に住む、生活に困っていない常識的な人たちは、他者にも常識的な態度を求めますし、宗教にも常識的で実利の有る教義を求めるようになるんだと思います。

また、人によっては根強い人気のある神秘主義の方は、道教がその需要に応えているようです。

日本人が仏教と神道の双方を同時信仰しても違和感が無いように、中国人も仏教と道教を同時信仰しても違和感が無いようです。

仏教には「理性的な教え」を求める人が多く、「人を呪ったりするようなこと」は道教でやっているようですw

どの国のどの仏教宗派でも、釈尊時代から連綿と受け継がれている教えを奉じているという物語は重視しているわけで、ブッダ教団を否定することは、自己(自宗)否定に繋がります。

また、ブッダ率いるブッダ教団を”小乗”と見做しては、ブッダも浮かばれませんw

第一、現在の東南アジアの仏教を、ブッダ教団と同一視することから、小乗(現在の南伝仏教をそう見做している)批判→ブッダ教団(サンガ)批判という論の立て方になっています。

”大乗”の歴史的展開を見ますと、「ブッダ・コンプレックス」(キリスト教圏ではキリスト・コンプレックスが起こる心理作用を研究しています)により、ある意味で「ブッダの教え」に異を唱えたがる僧侶が現れたとも、見ることが出来るかと思います。

大乗における衆生救済などは宣伝コピー・掛け声であり、説一切有部(これが仏典における小乗)と密接な関係が有った極一部の学僧が「仲間内だけで読みまわしていた”新しい仏教”の論文」を元にして、僧院に籠って、ああでもないこうでもないと議論していたのが大乗初期の実態だと考えています。

論重視の大乗が、大勢の僧侶とたくさんの信者から成る「仏教教団化」したのは、だいぶ後の時代になってからということが文献研究の方面から言われ出していますし、「伝統的な仏教(説一切有部を含む)がドラスチックに”大乗”に取って代わられたということではない」ようです。

文字文化の普及に拠り「学問革命」が起き、文字を思考のツールとして使い、論や思惟が深められる現象が、あらゆる学芸分野で同時多発的に起きたのです。

時を同じくして、文字(書)崇拝現象も共起したと思われます。

もちろん、現在の南伝仏教に繋がる系統の仏教も、その影響を強く受けています。

仏教では、宥和的な態度、争いを回避する態度、そして理性的な態度・考え方が重視されているのは、どこの国の仏教宗派でも共通しているかと思います。

ブッダは出家修行者同志、あるいは他の宗教者と言い争うことを戒めておられました。

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nak********さん

2016/4/1103:43:04

浄土思想の発生は、「仏」恋慕の対象を「釈尊」から「他方仏国土の現在仏」に移して「仏帰依」を実現したからじゃなくて、もっと単純なことだったと思いますよ。

つまり、現実にある場所の理想世界化であり、伝説化でしょ。

北方兜率天弥勒浄土。
「暑さ寒さのないところ。清涼な水の流れるところ」
誰かが実際に見たんでしょ、雪解け期のカール地形で一斉に高山植物が咲き始めるんです。
日本の登山隊が撮影した写真、私、見たことがありますよ。

西方弥陀浄土。
明らかに、シルクロードのオアシス国家がモデルでしょう。
バーミヤン遺跡の壁画に、王族と並んで「飾られたブッダ」と呼ばれる壁画が存在しています。
当時のオアシス国家は、通商隊が払っていく通行税で大いに繁栄し、世界中の珍宝が集まっていました。

観経は、まさに通商隊のために編纂されているような内容ですね。

で、「そこにたどり着くのは生きてる間には無理、だったらせめて、死後、そこに生まれ変わりたい」という希求が起きた。

通商隊は、オアシス国家が連合体を作って通商路を確保したその道を進んでいく。
周囲は「アリババ」だらけで、その間の事情は玄奘の『大慈恩寺玄奘三蔵法師伝』にも詳しいです。
ようやくたどり着いたオアシス国家の都城には、君主との拝謁の間があって、これはパルミラにもあったようですが、そこで通商隊の主だった連中が君主から歓待されるのですよ、「また来てくれ」ってね。

西域特産のワインがあり、着飾った女が歌や舞、楽器を奏で・・・。弥陀来迎図そのまんまでしょう?
で、夜になったら「どれでもいいぞ・・・」
ま、こっちは想像ですけどね・・・。

「ここからはるか西の彼方に、すげ~いいとこがあるんだよ」ってのが、どんどん誇張されて伝説化されていった。
これが「現世に実在する浄土の教主=現世仏」の仏国土となった。

他の部分は、特に言うべきことはありません。

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