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日本史で宗像大社はどういう位置づけ。

asa********さん

2016/4/1111:26:00

日本史で宗像大社はどういう位置づけ。

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kur********さん

編集あり2016/4/1122:06:36

ある書籍によると、北部九州沿岸地域の豪族のひとつであった宗像君(胸肩・胸形・身方・棟堅とも書く)は、古来、筑紫海域の守護神とされる田心姫命・湍津姫命・市杵島姫命の三女神を氏神として祀っていました。それが現在、宗像大社(田島宮)と呼ばれている宗像宮の発祥です。当時、宗像の氏人たちは、代々において神主として神に奉仕する一方、宗像郡の大領(郡司)として地域の行政に携わっていました。天慶年間までは、宗像宮には神主の他に特別に宮司職は設けられていませんでした。天慶五年(942)三月に実質的な大宰帥として大宰府に赴任してきた大宰大弐・藤原清平は、自らの措置として宗像宮に宮司職を置き、さらに宗像氏人たちの要請に応えて、大宮司職を置くように朝廷に申請しました。天元二年(979)二月に至って、ようやくこれが聞き届けられ、初代大宮司には清平がかねてその才能を見込んで推挙していた宗像氏能(むかなたうじよし)が補任され、以来600余年、第80代宗像氏貞の死によって大宮司家が断絶するまで、同家が代々大宮司を世襲してきました。

※天正十四年(1586)二月、宗像氏貞はふとした風邪で床に就き、それが原因で同年三月四日に42歳の生涯を閉じ、翌年三月、島津征伐のため西下した秀吉は下関に到着。九州各地の大小領主たちは、あらそって迎えの使者を差し向けました。氏貞の死を秘匿していた宗像大宮司家も今となっては隠し通す事はできないと言うので、重臣たちが協議の結果、占部八郎貞保が使者として下関に参上、秀吉に拝謁しましたが、既に氏貞の死が明らかになった宗像大宮司家領は没収され、居城の岳山城も秀吉の命により全て取り壊され、名実ともに歴史ある宗像大宮司家も歴史の舞台から退場しました。

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