ここから本文です

8月21日の真田丸の事件ですが 石田三成が、徳川家康を暗殺・襲撃しようとするの...

red********さん

2016/8/2122:46:59

8月21日の真田丸の事件ですが

石田三成が、徳川家康を暗殺・襲撃しようとするのですが、これはネタになる史実があるのですか?

まだ前田利家は生存、七将の治部襲撃前です。

閲覧数:
1,681
回答数:
3
お礼:
25枚

違反報告

ベストアンサーに選ばれた回答

kan********さん

2016/8/2807:55:36

石田三成ら奉行と徳川家康の間には豊臣秀吉の死去直後から、たびたび軍事的緊張が生まれており、家康の私婚問題も単なる話し合いではなく軍事力を伴った政争と考えられます。これまでのドラマでは加藤清正らに狙われた三成が一方的に襲撃される展開が多かったですが、実際には家康側も襲撃の危険に晒されていたのです。

私婚問題は慶長4年1月下旬には浮上していたものの、家康とそれ以外が和解の誓詞を交わしたのは2月5日で、その間は榊原直政が軍勢を率いて急ぎ上洛するなど緊張関係が続いていました。宣教師の報告には、家康は無防備のまま詰問の使者に対面せず、(誇張でしょうが)三万の軍勢を召集し守りを固めていたとあります。

石田軍記などには秀吉が死去した翌日にも三成が家康を襲撃しようとしたとあります。一方で翌日には三成が秀吉の死を家康に伝えたという史料も多いので真偽は不明です。ただ、まもなく家康に違反行為があったとして毛利輝元と奉行衆が起請文を交わし、軍勢2万以上、鉄砲5千丁を集めたとされます。誇張はあるでしょうが、軍勢が集まったのは同時代史料にあるので事実でしょう。しかしこの時も武力衝突には至っていないようです。

私婚問題のあとも、前田利家が伏見の家康邸を訪ねた際に三成が利家に相談して家康を討つことを決めたので、家康へ心を寄せる者たちが集まって守護した(細川家記)などと緊張関係は続いていたようです。
また、家康が大坂の利家邸を訪ねた際も家康襲撃の噂があり、家康与党が護衛に集まったとされます。三成派は小西行長または宇喜多秀家の屋敷に集まっていたとされ、小西が襲撃を主張したものの、三成らが異議を唱えて中止したとも言います(慶長治乱記)。
面白いのは、この時三成がひとりで利家邸に見舞いに来たと諸書にあることです。噂を消すためか、襲撃など考えてなくて普通に見舞いだったのかは分かりませんが、三成が襲撃してくると思って諸将が集まり緊張が高まっている中でやって来た三成に「人々は仰天した」と記されています。

宣教師の記録では、諸侯が軍勢に警護させて騒然としていた一方、敵を攻撃しようとしないよう自制していたともあります。襲撃計画の話は江戸時代に記されたものがほとんどなので真偽は分かりませんが、軍勢が大坂や伏見に集まっていたのであれば、襲撃の噂は日常茶飯事だったのかもしれません。

  • 質問者

    red********さん

    2016/8/2808:37:11

    そうなんですか?
    家康の襲撃を描かれないのは、司馬遼太郎「関ケ原」で、「襲撃をしない三成」を描き、それが定着しているからですかね?たしか、島左近から襲撃案がだされて、「明智光秀を見よ。おれは、襲撃はしない」みたいな大見え切っているシーンの記憶あります。

  • その他の返信(1件)を表示

返信を取り消しますが
よろしいですか?

  • 取り消す
  • キャンセル

「石田三成 徳川家康 襲撃」の検索結果

検索結果をもっと見る

ベストアンサー以外の回答

1〜2件/2件中

並び替え:回答日時の
新しい順
|古い順

img********さん

2016/8/2216:08:12

史実というより、史料はあります

家康の私婚問題時よりも前に、ドラマでは家康・三成双方が諸大名を自邸に呼んで接待していた頃です

細川忠興は、宇喜多秀家の縁者として、前田利長と共に奉行衆に呼ばれて出向くと、家康暗殺謀議だったようです

忠興はその状況を利用して、家康へ報告するためにスパイしたようです

その後、私婚問題が持ち上がり家康vs利家を含む四大老+奉行衆の対立になります

両陣営に諸大名が分かれるのですが

忠興・両加藤・浅野幸長も「利家」ではなく「家康邸」に日参しています

清正も私婚問題の当事者なので、利家には付きません

忠興・清正・幸長は「家康派」として、利家との和睦仲介に動きます

その甲斐あって、家康と利家が和睦

病身をおして利家が伏見の家康邸に足を運びますが、この時「利家夜話」では「家康に斬られることは、太閤に斬られること」と言っています

この時は、家康を隠居にも、ましてや私婚を中止させることも出来ずにいます

家康が不利の和睦ではありません

axy********さん

2016/8/2211:35:34

正確には前田利家VS徳川家康です。

秀吉死後、家康は亡き秀吉の法度を破り、伊達政宗・蜂須賀家政・福島正則と無断で婚姻政策を進めた。利家はこれに反発し、諸大名が家康・利家の両屋敷に集結する騒ぎとなった。利家には、上杉景勝・毛利輝元・宇喜多秀家の三大老や五奉行の石田三成、また後に関ヶ原の戦いで家康方につくこととなる武断派の細川忠興・浅野幸長・加藤清正・加藤嘉明らが味方したが、利家を含む四大老・五奉行の9人と家康とが誓紙を交換、さらに利家が家康のもとを訪問し、家康も利家と対立することは不利と悟り向島へ退去すること等で和解した。この直後、利家の病状が悪化し、家康が病気見舞いのため利家邸を訪問した。この時、利家は抜き身の太刀を布団の下に忍ばせていたというエピソードが残っている(『浅川聞書』)。その後大坂の自邸で病死。

利家の死後、家康により加賀征伐が検討される。利長は母の芳春院(まつ)が人質になる条件を受け入れ、加賀征伐は撤回された。

みんなで作る知恵袋 悩みや疑問、なんでも気軽にきいちゃおう!

Q&Aをキーワードで検索:

Yahoo! JAPANは、回答に記載された内容の信ぴょう性、正確性を保証しておりません。
お客様自身の責任と判断で、ご利用ください。
本文はここまでです このページの先頭へ

「追加する」ボタンを押してください。

閉じる

※知恵コレクションに追加された質問は選択されたID/ニックネームのMy知恵袋で確認できます。

不適切な投稿でないことを報告しました。

閉じる