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ラテンアメリカ諸国の独立について教えてください。

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ID非公開さん

2016/10/1522:11:18

ラテンアメリカ諸国の独立について教えてください。

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cac********さん

2016/10/1522:40:38

19世紀初頭、フランス革命の影響がおよんだことと、本国スペインがナポレオンに征服されたことを機に中南米地域の独立運動が活発となり、1804年のハイチを皮切りに、20年代に次々と独立を達成した。その動きはヨーロッパのウィーン体制を揺るがすこととなった。
スペインによる植民地支配は、インディオ人口の急激な減少、アフリカからの大量の黒人奴隷の移入と言った過去に例のない変動を新大陸にもたらした。原住民であるインディオはスペインの武力支配の下で、労働力として強制的に労働させられ、その不満は強まっていった。1780年にはペルーにおいて、最初のインディオの反乱であるトゥパク=アマルの反乱が起こっているが、この反乱はスペイン軍によって鎮圧された。1791年、エスパニョーラ島西部のフランス植民地サンドマングでトゥサン=ルベルチュールの指導する黒人暴動が起こった。これらのインディオや黒人の反乱に危機感を抱いたのが、支配層であった現地生まれの白人であるクリオーリョであった。クリオーリョは本国政府に代わって直接的な支配を現地で確立するには、独立の道を選ぶしかないと考えるようになった。彼らにとって参考になったのが、北アメリカ大陸における1776年のアメリカ独立革命であった。
さらに、フランス革命によって自由・平等の理念が実現したこと、ナポレオンのスペイン征服(1808年)によって、ラテンアメリカに独立の気運が高まった。ヨーロッパ本国の動きは約2ヶ月遅れでラテンアメリカの植民地にもたらされていた。
独立運動の開始
最初に独立を達成したのは1804年、トゥサン=ルベルチュールの指導した黒人国家のハイチであったが、それ以後は現地生まれの白人であるクリオーリョが主体となって、1808年のメキシコのイダルゴの蜂起などが続き、1810年代から20年代にかけて中南米諸国が一斉に独立を達成していった。
サン=マルティンとシモン=ボリバル
1811年には南米大陸で最も早くパラグアイが独立宣言、1814年にはアルゼンチンが続いた。その独立戦争を戦ったクリオーリョのサン=マルティンは、大遠征を敢行、アンデスを越えて1818年にチリ独立を達成した。
そのような中で、同じくクリオーリョ出身のシモン=ボリバルの「大コロンビア」構想のようなラテンアメリカの統合の動きがあったことは注目されるが、結果的に地域対立を克服することができず、群小国家の分立という形になった。また独立後も複雑な人種的身分制社会を抱え、産業の未発達もあって貧富の差が大きく、独裁権力が出現したりクーデターが相次ぐなどが政治的不安定が続いた。キューバなどハイチ以外のカリブ海諸国の独立は遅れ、20世紀にずれこむ。
あいつぐ独立
ラテンアメリカでの独立運動は、本国スペインで1820年から23年にかけて、スペイン立憲革命が起こり、自由主義改革が一時的に成功したことを受けて、1820年代に最も高揚し、1821年にサン=マルティンがペルーの独立を宣言した。ペルー情勢はその後悪化してサン=マルティンは撤退したが、替わってシモン=ボリバルが1824年のペルー南部でのアヤクチョの戦いで残存するスペイン軍(王党派)に大勝したことが決定的となった。メキシコでは1821年にイトゥルビデが国王就任を宣言し立憲君主国として独立したが、民衆の反発を受けて追放され、24年に共和政となった。この間、ポルトガル領のブラジルも1822年に独立を宣言した。ウルグアイはアルゼンチンとブラジルの緩衝地帯であったので双方からの介入が続き、独立は遅れて1830年であった。
ウィーン体制の動揺
この動きに対して、ウィーン体制下で復活したヨーロッパの絶対王政諸国はラテンアメリカ諸国の独立への介入を図ろうとした。特に1823年に神聖同盟諸国がスペインを支援してメキシコに出兵しようという計画が持ち上がると、アメリカ合衆国はモンロー教書を発表して、ヨーロッパ諸国の南北アメリカ大陸への干渉を批判し、相互の不干渉の原則を打ち出して牽制した。また、イギリス外相カニングは、自国製品の市場としてこの地域がスペインから独立することを期待して支援していたので、ヨーロッパ諸国の中で唯一アメリカ合衆国を支持し、ウィーン体制から距離を置くこととなった。そのために、ウィーン体制とそれを支えていた四国同盟(五国同盟)にひび割れが生じることとなった。
参考 クレオールの先駆者たち
ベネディクト=アンダーソンは『想像の共同体』(1983)のⅣ「クレオールの先駆者たち」において、「ナショナリズムを考察する上で、18世紀後半、19世紀初頭の新興アメリカ諸国家がきわめて興味深いのは、これらの国家が、ナショナリズムの勃興について偏狭なヨーロッパ的思考を大きく支配してきた(中略)二つの要因をもってしては、ほとんど説明がつかないということによる。」と述べている。二つの要因とは、一つはブラジルにせよ、アメリカ合衆国にせよ、あるいはスペインの元植民地にせよ、言語はこれらの国々を本国から分化する要因ではなかったことである。アメリカ合衆国も含め、すべての国家はクレオール国家であり、彼らが叛旗を翻した当の相手と言語、出自を共通にする人びとによって指導された。もう一つは、少なくとも南アメリカと中央アメリカでは、まだヨーロッパ流の「中産階級」などとるにたらぬ存在だったことである。「独立戦争のリーダーシップは、多数の大地主、そして彼らと同盟した少数の商人、さまざまの専門的職業者(プロフェッショナルズ、法律家・軍人・役人など)によって掌握されていた。
(引用)・・・ベネズエラ、メキシコ、ペルーなどの場合、マドリードからの独立に当初、拍車をかけた要因は、「下層階級」の政治的動員、すなわち、インディオあるいは黒人奴隷の反乱への恐怖であった。(中略)ペルーでは、トゥパク=アマルーに指導された大農民一揆の記憶がなお新しかった。1791年には、トゥサン=ルヴェルチュールが黒人奴隷の反乱を指導し、この結果、1804年は、西半球における第二の独立共和国が誕生して、ベネズエラの大奴隷農園主を戦慄させた。1789年、マドリードがより人道的な新奴隷法を発布し、主人と奴隷の権利義務関係を詳細に規定したときには、「クレオールは、奴隷が、悪徳と独立(!)に染まりやすく、経済的に不可分であるとの理由で、国家の介入を拒絶した。ベネズエラでは(中略)農園主は法律に抵抗し、1794年にはこれを停止させた。」解放者ボリーバル自身、かつて、黒人の反乱は「スペインの侵略より一千倍も始末が悪い」と語ったことがある。・・・当時すでにヨーロッパ二流の国家であり、しかもつい先頃までナポレオンに征服されていたスペインに対する大陸的闘争がかくも長期化したこと、これは、ラテン・アメリカのこれら独立運動の「社会的な層の薄さ」を物語っている。また、なぜ、ほとんど3世紀にわたって平穏に存続してきたスペイン・アメリカ帝国が、これほど突然に18の別々の国家に分裂したのかという問を立て、ラテンアメリカ諸国が、共通のスペイン語という言語を使用しているにもかかわらず、一つの国家として独立しなかった理由は、これらの新生共和国が16~18世紀の行政上の単位であった事をその理由として上げている。その点でこれらの諸国は19世紀後半から20世紀初めに誕生したヨーロッパの新興国家とははっきりとした対照をなしており、その点で南アメリカの共和国は20世紀なかばにアフリカ及びアジアの一部に成立する新興国家のさきがけで会った、と指摘している。

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質問した人からのコメント

2016/10/15 23:08:52

すごくわかりやすい説明ありがとうございました!

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