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光明皇后って、藤原氏の人間という意識が強烈な人だったのですか?藤三娘という署...

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ID非公開さん

2016/11/1508:21:36

光明皇后って、藤原氏の人間という意識が強烈な人だったのですか?藤三娘という署名が有名ですが。だとしたら、なぜそうなったのでしょう? あの時代は母方で養育されるのが普通です。よって、光明皇后は、年の離れた橘諸兄は別にしても、橘三千代のもとで、三千代と元夫との間の子供達(橘佐為、無漏女王)や、橘諸兄の妻で奈良麻呂の母となった多比能、大伴氏に嫁いだ殿刀自などの同母姉妹と一緒に育っているはずです。藤原四兄弟より、こちらの人々に親しみを感じる方が自然な気がしますが?

異母兄の藤原四兄弟のように強烈な藤原氏の人間という意識を持つような生い立ちだったのでしょうか?

光明皇后は、藤原四兄弟とは年齢に開きがあり、母も違うので、すごく仲が良くて考え方が一致していたとは考えにくいのですが?

光明皇后が藤原氏全開な人だったというのは本当なのでしょうか?

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ban********さん

2016/11/1511:00:40

藤原不比等と橘三千代はいわば再婚同士で、双方に連れ子がいっぱいいるわけです。不比等と三千代はお互いの権勢をうまく利用して相乗効果で出世していきましたから、二人の連れ子たちはいわば「同じチーム」です。
橘氏、という藤原氏に抵抗する氏族がいたわけではありません。蘇我氏や大伴氏に比べれば、藤原氏も橘氏もともにできたたばかりの新興氏族ですが、発足の経緯からいっても、この二つは完全に「同体」でした。
のちに藤原四兄弟が流行病で一斉に死んでしまったとき、大慌てで政府首班につけられたのが橘諸兄ですが、これは「藤原勢力を守るためのピンチヒッター」であって、橘、と名乗ってはいても自他ともに藤原一族の一人と見なされていた、ということです。
のちに橘諸兄と藤原仲麻呂が対立したりするのは、いわば「一族の内輪もめ」であって、諸兄がいきなり橘の血に目覚めたってわけではありません。光明皇后が、弟から甥に乗り換えただけです。
藤原氏には「南家、北家、式家、京家、橘家」があった、くらいにイメージしたほうが正解です。

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質問した人からのコメント

2016/11/21 21:22:28

驚く 新しい視点です。お二人とも回答ありがとうございました。

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yas********さん

2016/11/1510:44:44

藤三娘とは公的な名の表現で、むしろ自己主張を抑えた謙譲的な表現と言えるでしょう。
光明皇后は橘諸兄にも親しみを感じていたはずで、諸兄が出世したのは光明皇后の引き立てもあったはずです。
一緒に育ったのは聖武天皇であり、傲慢さむき出しの意識が強烈だったのは聖武天皇の方です。
その天皇を支えるために苦心していたのでしょう。

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