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よくおね(ねね 北政所)様は、秀吉公没後、徳川家康に味方したといわれていますが、...

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ID非公開さん

2017/1/1222:11:01

よくおね(ねね 北政所)様は、秀吉公没後、徳川家康に味方したといわれていますが、具体的には何かそのような記述など残っているのでしょうか?

大河ドラマなど見ていると、おね様が

「これからは徳川殿の時代じゃ。徳川方へお味方を」

といったようなシーンがありますが、本当に各大名などへそのような事を言ったのでしょうか?

よくこの知恵袋でも、「なぜ味方したか・・・?」いった質問を見受けますが、具体的に本当に味方したのか・・・?と不意に思ったもので質問させて頂きました。

もし味方したというのであれば、具体的にどのような事をしていたのか・・・ご存知の方教えて頂けないでしょうか?

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kan********さん

2017/1/1708:11:33

関ヶ原の前に黒田長政と浅野幸長が小早川秀秋に宛てて徳川家康への加担を呼び掛けた書状に、「政所様へ相つづきご馳走申さず候ては叶わざる両人に候間」という文言があります。これをもって、北政所の意志に則った行動=家康に味方することだと解釈されて、そこから淀殿ー文治派と北政所ー武断派の対立という描かれ方がドラマや小説でされてきました。

これは江戸時代に北政所が家康に同調していたかのように描かれたことも影響しています。死ぬまで表に出た淀殿が「悪女」化される中で、北政所が賢明であまりしゃしゃり出ない正反対のキャラクターとして描かれたのです。

ただ、近年は全く逆の解釈がされるようになりました。黒田と浅野の書状は北政所の名前を出しているものの、家康につくことが北政所の意志であるとは記されておらず、むしろ北政所への馳走と家康への忠節が矛盾しないことをなんとか理解してもらおうとしている、つまり北政所のために動くことと家康のために動くことの間に隔たりがあるからこそ、こうした文言が出てきたとの見方があります。

関ヶ原合戦における北政所の動きでよく知られるのは、淀殿と連携した大津開城です。東軍に寝返って籠城した京極高次を説得し、西軍に城を明け渡させたのです。大河ドラマ江では、珍しく淀殿と北政所の連携が描かれました。
秀吉側室松の丸殿がいた点も重要ですが、戦略的にも西軍へのくさびになっていた大津城を開城させる行為は東軍にとっては困るものであり、戦後、開城工作に関わった者たちは処分されています。北政所が派遣した孝蔵主も結果、処分は免れましたが、詮議を受けていました。

加えて伏見落城を祝って、毛利輝元が豊国社に神楽を奉納した日、北政所も帷子を奉納しているなど、西軍諸将との連携が見られます。関ヶ原で西軍が敗れると、北政所は裸足で逃げるように逃亡し、財産を豊国社に預けました。これについては東軍の責任追及から逃れるため、また関ヶ原で甥秀秋が寝返ったため、西軍から襲われそうになったためともされます。

北政所は関ヶ原後も淀殿や秀頼と連携しており、大坂と対立した様子はありません。実際には完全に隠棲した訳ではなく政治的な動きは見せており、木下家の相続問題では幕府の方針に反対して徳川方から「老いの気違い」とまで史書に記されています。徳川にとって北政所は、尊重はしていたものの、それだけではない、複雑なものがあったのです。

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質問した人からのコメント

2017/1/18 08:42:29

やはり後世の作り話・・・的な要素が満載のようですね。なんかおかしいな・・・と思ってたので、少し納得いたしました。皆様ありがとうございましたw

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mrx********さん

2017/1/1400:34:48

記述は残っていません。
その辺りはほぼ後世の創作になります。

それどころか家康は度々北政所を所領を没収しています。

家康としては豊臣の関係者である北政所を無力化したかったのでしょう。

しかしながら息子の秀忠が北政所を母のように慕っていたのでその手前あまり酷い仕打ちも出来なかったそうです。

北政所の所領は家康が没収しても後に秀忠が何事も無かったかのように再び返しているので、北政所が幕府から優遇、もしくは北政所が幕府に味方しているように見えただけなのかもしれません。


ちなみに秀忠は大坂城に人質として預けられてる頃北政所に実に親切にしてもらったのがきっかけで慕っていたと言います

ben********さん

2017/1/1316:25:32

家康から化粧料(1万石教)を受け入れていたことで、好意を感じます。

一番反応したのは、黒田長政でしょう。
一年ほどの人質時代を過ごした加藤清正や福島正則を取り込むことに成功しています。

まぁ、家康の養女の嫁をもらったら、「お味方します」と、同じです。

子飼いは、高台院にご機嫌伺いに行ったでしょうし、(近江組は、行かなかったかもしれません)内密な話として、出たかもしれませんね。

oya********さん

2017/1/1301:18:55

家康に逆らうな、程度のことしか言ってませんね。

fuw********さん

2017/1/1300:50:22

本人が言ったかどうかは定かではありません。
しかし、彼女はあっさりと大阪を退去しているように、秀吉のいない大阪に、豊臣家には何の未練も感じていなかったのでしょうね。

積極的に豊臣の味方にならない→結果的に徳川を利することになったというだけのことでしょうね。
しかし、徳川はこの事実を積極的に活用し、加藤福島ら秀吉子飼いを手懐ける材料にしたのだと思われます。

wak********さん

2017/1/1223:27:06

家康から行動できないようにされていたのではなかったか?
寧々さまは、おもに朝廷との関係をになっていたらしいので、政権争いにはノータッチだったのかもしれない。
淀殿母子に大阪城を任せたのも、引き続き京の貴族たちとの付き合いに重点を置いていたからでは?
秀吉チルドレンたちは寧々様が面倒みたので、皆一応に敬意ははらっていたらしい。

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