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1543年に鉄砲が伝来して、その後、300年近く経ても先込め式の基本構造は変...

sas********さん

2017/2/1312:57:07

1543年に鉄砲が伝来して、その後、300年近く経ても先込め式の基本構造は変わらなかったのでしょうか?

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gpx********さん

2017/2/1318:56:51

そもそも後装式(元込め式)の銃そのものの成立が19世紀ですからね。

銃の進化の変遷は、まず点火方法の改良から始まりますが、

・火縄式(15世紀初頭)

・歯輪式(16世紀初頭)

・燧石式(すいせきしき:17世紀中頃)

・雷管式(19世紀)

という具合に改良が重ねられました。
ただし、雷管式まで至っても鉛製球形の玉を黒色火薬の玉薬と共に銃口から入れる前装式(先込め式)という点には変化が無く、この点に関して言えば火縄式から全く発達していません。

一応、この間に銃身内部に旋条(せんじょう:ライフリング)を施したヤーゲル銃などの施条銃身も成立していますが、旋条に玉を㮶杖(さくじょう)で圧着させるのに手間がかかるため、ライフリングの無い従来の滑腔式銃身も用いられました。

さて、前置きが長くなりましたが、後装式施条銃の成立にはミニエー弾の登場を待たなくてはなりません。
ミニエー弾は1849年にフランス軍人のクロード・ミニエーによって開発されたもので、ドングリ型をしており、玉の径を銃身の口径よりもやや小さくし、玉の裾が発射のガス圧でスカート状に広がって施条に圧着するというものです。

このミニエー弾を使用する前装式雷管施条銃はミニエー銃と呼ばれて欧米に普及し、イギリスのエンフィールド銃やアメリカのスプリングフィールド銃などが派生しました。

初期の後装式施条銃は、このミニエー銃を改良したもので、イギリスのスナイドル銃やフランスのシャスポー銃などがありました。

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yas********さん

2017/2/1313:17:40

変わりません。

日本の銃器が伝来から幕末までの永きに渡り火縄銃の構造から進歩しなかった理由には以下があげられる。

まず江戸時代に入り、徳川綱吉によって諸国鉄砲改めによる百姓の狩猟及び銃の原則所持禁止、銃器の移動制限がなされたことや、鎖国の影響による技術進歩の停滞という通説が存在する。

しかしながら、外国で発達したフリントロック式の技術は、当時の鉄砲鍛冶に受け入れられたのは事実であり、試作品も現存し、また応用技術としてその機構を流用したライターも製造されている。また、各大名諸藩で極秘裏に様々な銃器が研究されていたことも事実であり、そのバリエーションは多岐にわたる。

フリントロック式が日本では流行しなかったのは、日本では良質の燧石が産出せず[要出典]大量生産ができなかったこと。フリントロック式は機構の不具合による不発率が火縄式よりも高かったこと。平穏な時代が長く続いたため、天候に影響されにくいことや、密集射撃が可能であることなどのフリントロック式の長所が理解、あるいは必要とされなかったことが理由として挙げられる。ほか、すべての武術と同じく鉄炮術も一種の競技的な要素を含んで流派形式で継承されたため、その結果必然的に器具類の改変は避けられた、という要素も大きい。フリントロック式の欠点として、火縄式に比べ強力なバネが装着されており、撃鉄作動時の衝撃が大きく、引金を引いてから一瞬遅れて装薬に着火する機構のため銃身がぶれ、命中率が悪く火縄銃よりも命中率が劣ることが挙げられる。当然ながら実戦よりも競技となった鉄炮術においては、この欠点は大きな問題となる。そのため江戸時代を通してほとんどの銃器が火縄式のままであった。

一方で火縄銃は、鳥獣被害対策のための実用の農具として、農村に普及し、売買され、所有されていた。もちろん、一揆への警戒などの理由から、農民の農具としての火縄銃のさらなる性能向上は、全く考えられなかった。

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