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毛利の外交僧 安国寺恵瓊

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ID非公開さん

2017/2/2317:53:53

毛利の外交僧 安国寺恵瓊

北条の外交僧 板部岡江雪斎
この2人は僧なのに何故、重要な役割を得たんでしょうか?
安国寺恵瓊は家臣を持ち、関ヶ原にも参戦し、
しかも伊予6万石の大名ですよね?
スゴイ武将?僧?だったんでしょうか?

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真田節さん

2017/2/2318:59:35

1つは学問ができて知識があったから。
外交官は大名家を代表するものだったので、そうした知識が豊富な彼らが選ばれた。
もう1つは僧侶と言ったものが世俗と超越した存在だったから、敵味方関係なく土地を通行することができた。
このため外交官として僧侶が選ばれたと何かの本で読んだ。

安国寺当人が偉かったというよりは毛利の勢力削減策の一環として安国寺が別に所領を与えられたんだろう。

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ベストアンサー以外の回答

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2017/2/2600:40:00

僧だけでなく、近衛前久のような公家も外交や戦闘も行っています。

これは、
乱世の武装した領主
という大きなカテゴリーの中に、
武士という戦闘専業
僧や公家の戦闘兼業
がおり、外交も行った、
と解釈すべきでしょう。

2017/2/2600:03:48

僧侶は、経を読むことを習う、そして教養としての学問として、中国の古典・典籍に多く触れることができました。その僧侶の中で、智に深く、戦略・戦術、交渉術など、高度の知識や識見を持った人材は、戦国大名が、自身の軍師として、或いは後継者の太傅として、スカウトしていました。
その人たちは軍師であるとともに、優れた外交官になる素養も有りましたので「外交僧」として動いたという事です。

因みに、戦国時代の大名の下に居た武将の多くは文盲であったり、無教養であった人が少なくありません。
秀吉ですら、少々のひらがなを書けただけでした。
ネネに宛てた自筆の書状(ラブレター)の写真を見た事が有りますが、小学校の低学年並みの物です。

徳川家康の重臣・酒井忠次が信長の処に使いした時、家康の嫡男・信康をかばう事が出来なかったほど交渉下手であったことが武直の証しのように言われるほどの時代でもありました。

外交僧と言う存在が、使者として必要だったことの理由の一つでもあります。


NHK「真田丸」のサイトで、『板部岡江雪斎が、なぜ優れた外交僧だったのか』について似たようなことを書いています。


仏教の伝来から江戸時代の初めまで僧侶は中国から伝わった最先端の学問を身に着けた存在でした。僧侶が読む漢文の書物の中には、農業技術から建築、薬学など幅広い分野の知識が含まれていました。

戦国大名はこうした僧侶の高い教養と知識を評価していました。「孫子」など兵法書の知識を持つ僧侶も多く、頭の回転もきっと速かったのでしょう。軍師や相談相手、外交官に打ってつけの人材が僧だったわけです。

戦国時代の寺社は独自の僧兵を抱え、戦国大名さながらの領地経営をしていました。このため、僧侶の側も軍を率い、大名の外交交渉をすることに抵抗がなかったと考えられています。


信長は沢彦宗恩、信玄は快川紹喜を相談相手や外交僧として活用しています。

sas********さん

2017/2/2319:04:15

大名などが献金するような大きな寺には大名家の二男三男など後継ぎにしない子息が預けられたりしました。
そのような名家の出の僧は勉学に励み還俗の機会を見据えてたんじゃないかと思います。
今川義元も足利義昭などもそうして還俗して後を継ぎました。
ただ家臣として使える際に僧としてのままの方が敵方に交渉に行きやすかったんだと思います。
ちなみに安国寺恵瓊は毛利元就が滅ぼした元安芸守護の武田氏の子孫と言われてます。

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