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織田信長が他の戦国大名を差し置いて最初に天下統一に近づけた最大の理由が、京都...

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君のあさ。さん

2017/3/500:51:16

織田信長が他の戦国大名を差し置いて最初に天下統一に近づけた最大の理由が、京都にアクセスしやすいところに生まれたからであるということについて、なぜ人々に軽視されがちなのでしょうか?

どんなに信長が開明的でも鹿児島や仙台に生まれていたら天下統一は無理でした。
信長は京都にアクセスできるほかの戦国大名(三好氏や朝倉氏)よりはデキる人だったというだけのことじゃないですか?

人々はなぜそこをもっと掘り下げようとしないのでしょうか?

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har********さん

2017/3/910:28:15

大前提が間違っていますね。

>他の戦国大名を差し置いて最初に天下統一

天下統一レースの参加者は信長ただ一人です。
戦国期というのは中央の統制が破たんし、地方分権化が進んでいった時代です。
初期には地方で蟠踞し勢力と兵力をたくわえ、それを背景に中央に進出し幕政の実権を握るということが行われていました(大内氏や三好氏)が、いずれも失敗し、中期以降は地方に強力な独立政権を作る方向へ時代は流れて行ったのです。

つまり京都に上って天下に号令するなどというのは「時代遅れ」の手法だったのです。だから長尾景虎などの古いタイプの大名くらいしか実行しなかったし、毛利元就が「天下を望むな」と遺言したのです。
おそらく、信長が足利義昭を奉じて上洛するときに六角氏くらいしか抵抗しなかったのは「何をいまさら時代遅れのことを」と冷笑していたからであり、朝倉氏がそれをしなかったのも同じ理由です。
六角氏が敵対したのも、当初義昭を支援しながら三好三人衆と通じて裏切った経緯があるので、義昭の将軍就任を認めるわけにはいかなかったという背景があるからで、決して「信長が天下を取るから」などという事を思っていたわけではありません。

ですから武田信玄が尾張に生まれていたとしても決して天下は取っていません。
間違いなく国力の高い東側へ攻略を進めていったはずだからで、信玄が晩年京都へ向けて侵攻(それも諸説あって京都へ向けたのかは確かではありません)したのも、信長のやりようを見て「その手があったか」と思ったからと考えるのが妥当でしょう。

では「その手」とは何かというと、実は信長は京都を制圧しても「天下に号令」なんてしてはいないのです。それまでは幕府の要職に就き幕政に参画するのが普通でしたが、それをまったくせずに、将軍様の命と称して権威だけを利用してただただ次々に京都周辺地域を制圧、自らの領国化してしまったのです。
気が付けば、周囲の大名とは比較にならない勢力になっていて、単独ではどの大名も敵対できなくなっていた。

要するに古い手法として①勢力を扶植して京都で幕政に参画する、ということが否定され②地方に蟠踞し、実力で周辺地域を併合しながら強力な地方独立政権を作る、という「新しい」手法が日本を席巻していた時期に、信長だけが③将軍の権威を利用して「自分の」領国を広げる、という手法を取ったということです。

もちろん、信長が尾張に生まれなければそれも不可能だったかもしれません。
しかし他の大名が尾張に生まれていても、同様の発想ができたというのは違うと思います。それは贔屓の引き倒しというもので、それならば領国経営においてもなんらかの革新性が現れているはずだからです。たとえば家臣団の城下常駐とかですね。

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ban********さん

2017/3/910:45:56

要するに「伊達政宗は京都に近いところに生まれていれば天下が取れたはずだ、信長はズルい!」と言いたいわけですね。
そういう要らぬ言い訳めいたことを言ってる時点で、そいつは天下なんか取れる器ではありませんね。「言ってるだけ大将軍」です。
あ、すいません、あなたは伊達政宗じゃないですもんね。失言を陳謝します。

jig********さん

2017/3/909:52:24

京都に上洛する為の条件は
1、京都に兵を常備する兵力
2、それを支える財力と兵站
この2つが重要になります。
兵力に関してはもちろん京都だけでなく
領土も守らなければいけないのでかなりの人員が必要になります。
しかしこの時代は普段は農業をしている民兵が主流だったので長期間兵を常備するのはかなりの負担になります。
信長は早くに兵農分離によって常備兵が
軍の多くを占めているので長期間兵を送り出しても問題なくまた濃尾平野は肥えた土地なので資金力もあったことが1番の要因だと思います。
また当時は武田と同盟してたので外交的
要因も考えられますが運だけでは上洛はできなかったと思います。

aki********さん

2017/3/819:29:46

私は学んだ時には十分京都にアクセスが近いっていうことも学びましたよ。ただ京都に近いだけじゃダメで足利将軍を京都へ送り出すというような大義名分がないと駄目だったんです。 尾張と美濃を統一してそこからどうするかと言った時にたまたま足利将軍がいたんですからこれはラッキーとしか言いようがないでしょうね。

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2017/3/611:27:37

天下統一に先駆ける事ができたのは、たった1つの要因だけではないでしょう。

その意味では、あなたの指摘も正解とは言えません。
領地の地勢的な場所、自国の国力、信長自身と家臣団の能力、抑えるべき様々な所を抑えた(領地、地位、将軍家等)などなど、更には彼自身の運の良さなど数々の要因があってからこそできた事でしょう。

man********さん

2017/3/610:25:16

アクセスの良さが、最大の要因じゃあないからです。

・平安時代の末期から、政権をになったのは、平氏、源氏、北条、足利の関東系の武士ですよ。
・明治維新も、薩摩、長州ですよ。

ヒトツのプラスのハンディではありましたが、決定的要因ではないです。

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