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京都の姉小路氏は、実際に飛騨の国にいたことがあるのですか。 飛騨の姉小路氏と...

unk********さん

2017/3/2612:47:31

京都の姉小路氏は、実際に飛騨の国にいたことがあるのですか。
飛騨の姉小路氏と言うのは、本来は三木と言う名前で姉小路氏の名前はおカネで買ったみたいなものなのですね。

その名前の元になった本当の姉小路氏は、飛騨にいたことがあるのですか。
自分は京都にいて、家来を飛騨に派遣していた様な格好ですか。

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men********さん

2017/3/2617:17:13

建武元年(1334)、飛騨国司に任じられたのが公家の姉小路家綱です。

永禄3年(1560年)、三木自綱によって姉小路家は乗っ取られました。

天正10年(1582年)、姉小路頼綱(三木自綱)による飛騨統一事業により、他の国人衆とともに、公家系姉小路氏も臣従を余儀なくされます。
天正13年、羽柴秀吉の命を受けた金森長近によって、三木氏系姉小路氏も滅ぼされました。

結論。公家の姉小路氏は、建武元年から天正13年まで、飛騨にいたわけです。ただし、弘治4年(1558年)に飛騨守の官位を失っていますので、これ以降はその他の国人領主と同じであり、公家と呼べるかどうかはわかりません。

公家の姉小路氏には流派が3つあります。
1 閑院流
2 小一条流
3 勧修寺流
飛騨国司に任ぜられ、その後滅亡したのは小一条流で、勧修寺流は鎌倉時代に没落しており戦国時代にはすでにありませんでした。閑院流は命脈を保ち続け、明治維新後に伯爵になっています。

  • 質問者

    unk********さん

    2017/3/2618:43:46

    姉小路氏も飛騨にいたのですね。
    一条氏のほうがかなり家柄は上だと思いますが、土佐の一条氏と同じような感じでしょうか。
    下向して、そのまま都に帰らず。
    当時は、都にいるよりも、任地にいたほうが経済的にも良かったのでしょうね。
    あんまり暴れまわっていたりして、都にも宜しくない話が伝わってきて、一条氏の家柄に傷がつくなどしたらしいですね。
    都の本家とも疎遠になったりしたのでしょうか。
    姉小路もそうでしょうか。

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質問した人からのコメント

2017/3/27 00:06:47

ありがとうございます。

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