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コンスタンティノープル包囲戦(1453)の開戦理由はなんですか?やっぱり言いがかり?

シャンプーラブさん

2017/5/220:04:55

コンスタンティノープル包囲戦(1453)の開戦理由はなんですか?やっぱり言いがかり?

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zez********さん

2017/5/223:26:45

東ローマ帝国側の挑発です。

元々メフメト2世は欧州文化へのあこがれが強い人物で、東ローマにも親和的に接する姿勢でした。しかし東ローマ側が亡命したオスマン帝国の皇族を擁立してオスマン帝国の分裂を図ることを示唆し、これに激怒したメフメト2世が方針を改め、何が何でも東ローマ帝国を滅亡させんと決意した次第です。

そもそも東ローマ帝国は既にコンスタンティノープルの周囲を領有するのが精一杯のところまで弱体化して久しく、そのような国がこのような危険な駆け引きをオスマン帝国に対して行ったことは無謀の極みでした。
不幸中の幸いはメフメト2世が欧州文化への憧れをいまだ失ってはいなかったということでしょう。本来なら兵たちへの報酬と都市への制裁として3日間続けられる略奪をわずか数時間で中止させ、結果的に数々の古代遺産を後世に残すことになりました(まぁ、宗教施設はモスクとして使えるように改修されちゃいましたが…)。メフメト2世は「イスタンブール」と都市の名を改めさせ新たな帝都とすると共に、貢納と政治的服従を条件としてキリスト教徒・ユダヤ教徒にも信仰の継続と居住の権利を認め、イスタンブールは当時きっての国際都市として新たな栄華を極めることになります。

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lom********さん

2017/5/223:11:57

確か、オスマン帝国の帝位継承争いに、メフメト2世の対抗馬を応援したのがビザンツ帝国だったから、メフメト2世は滅ぼす方針に転じたとか聞き及びます。


また、コンスタンティヌス11世は皇帝になる前のモレアス専制公の時代に、オスマン帝国が十字軍と戦っている間をついて、テッサリア地方まで攻め込んだりしていますので厄介に思われていたのかもしれませんね。

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na_********さん

2017/5/222:23:52

開戦は、1396年です。
この時は、ハンガリーが、対トルコの兵をあげて攻め込んできたので、トルコは、一時撤退して、ハンガリー対策をします。

1402年に、トルコは、またコンスタンティノープルに軍を進めますが、その時チムールがトルコを攻撃し、トルコが敗北したため、コンスタンティノープルは、生き残りました。

1450年に、コンスタンティノープルを包囲するための要塞を建築しはじめます。
そして、1453年に攻撃開始したのです。

cyc********さん

2017/5/222:02:34

まあ、言いがかりとか口実すらなかったようですね。単にコンスタンティノープルを包囲して開城を要求しただけです。

彼は自分の大臣に「あの街をください」と頼んだとされています。

つまりオスマン帝国内に親ビザンティン派というか、ビザンティンを滅ぼして西欧を刺激することに反対の勢力があって、その同意さえ得られれば、軍事的には問題にならないと考えていたんですね。

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