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「徳川信康切腹事件」について。

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ID非公開さん

2017/6/1519:52:07

「徳川信康切腹事件」について。

最近では家康陰謀説が有力で、江戸時代になってから「家康(徳川家)の面子を保つ為に自分の息子殺しを隠蔽し、信長の所為にした」とのことですが、ここでちょっとだけ引っかかることがあります。ここで「徳川家正統化」の為に信長を引っ張り出してきたわけですが、それは良いとして、俗に言う「徳姫による十ニカ条の書状」・・・ここに「信康の悪行」が認められていたワケですが、徳川の正統性を計る為なら、何故、これを記した(残した)のでしょうか? 徳川家を正当化する為ならば「信康が築山殿と武田と内通しているとの疑いを懸けられ、兼ねてから信康に脅威を抱いていた信長に難癖をつけられ止む追えず息子・信康の切腹に至った。」、で良いと思うのですが。。。そして信康の死後も質素な墓が建てられただけというのも気になります。徳川家の正統化の為ならもう少しきちっとした菩提寺なりを建設してるはずだと思うのですが。。。皆さんのご意見を御伺わせ下さい。

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f27********さん

編集あり2017/6/1900:04:27

徳姫が送った信康の罪状十二ヶ条は内容は確定されているものでなく、全条は明らかでありません
大体共通するのは信康の不行跡や粗暴の四ヶ条ですが、築山殿の不義密通と武田方内通も加わっているとするのが一般的です
大久保彦左衛門の創作ではなく、実際にそれに近いものがあったから残ってしまったということではないでしょうか

信康だけでなく築山殿までは処分されていることや、命まで奪われているということは、謀反か敵方内通といった重大な事項が含まれている考えるのが順当でしょう
「徳川家内紛説」をとる方のいう「浜松派と岡崎派」の対立というのは矛盾が多いのに、それを無批判に拡散する人が多いので、ネットではそれが今や通説かのように扱われていますが、全体としては信長の命令もしくは圧力というのが通説のままで、近年の大河などいずれもそのスタンスで描かれています
たしかに武田との戦いでもっとも家康が苦しかった、三方ヶ原の戦い~長篠の戦いの間に、家康の織田一辺倒の方針に疑問を抱く信康配下の家臣がいたのは事実で、それが大賀弥四郎事件」だったのでしょう
もし家康が討死、信長も敗れるような事態となった場合の保険のつもりだったかはわかりませんが、その際は信康を擁立して武田の配下でも生き残れる工作だったかもしれません
それならば築山殿も抱き込まれることもありえます
しかし信康自身はそのような話は預かり知らず、弥四郎の処刑で徳川家内では、決着がついた問題が、徳姫の書状を切っ掛けに4年後に織田から問題視されたのではないでしょうか?
長篠で武田を完膚なきまで叩いても、近畿、北陸、中国では織田は予断を許されない戦いを続けており、説の一つである「家康の忠誠心を試した」というのも頷けません
むしろ、徳川家内に親武田や反織田の一派がいて、それが実権を握るような事があっては、織田にとっても甚だ都合が悪いので、それに対する処置を要求したのでしょう


しかし徳川は織田の家臣ではないので、直接命令はできません
家康としても「織田の命令に従った」では、織田の家臣になったと宣言したようなものなので、どのみち助けられないなら自身の命令で処分したということではないでしょうか
信康の切腹が家康の本意でなかったであろうことは、信康に付けられていた家臣がほとんど処罰らしい処罰も受けていないこと、自ら出奔した信康付の家臣もあらかた帰参を許されていること、信康の忘れ形見の女子二人は徳川家で大事に保護され、成長後は政略の匂いの少ない譜代大名に嫁いでいること、信康と同母姉の亀姫にもなんらの科もおよんでいないこと、信康の娘や姉が信康や築山殿の件で家康を恨んでいたような話が一切ないことでわかると思います

清瀧寺の信康の墓所は決して粗末なものではないし、服部半蔵が西念寺に建てた墓も立派なものでした
公式には徳川家として処罰した形の人物として、松平家や徳川家の菩提寺で供養することができないので、それが家康にできる精一杯のことだったのではないでしょうか?

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質問した人からのコメント

2017/6/19 00:10:40

何か久しぶりに人間らしいっていうか心のこもった回答を拝見した気がします。
ありがとうございました。質問しといて何なんですがこの問題は誰も「正解」は出せないかも知れませんね。

「ネットではそれが今や通説のように扱われている」・・・ホントそうなんですよね~。何て言うか鬼の首取ったような上から目線の言い方で。。。

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かものさん

2017/6/1521:10:21

家康が信康のために清瀧寺という菩提寺をたてたとWikiには書いてありますよ。「徳姫による十ニカ条の書状」は家康の正当性を強化してくれる資料のように思えますが。信康は悪い奴だから切腹させたということです。

gpx********さん

2017/6/1520:57:18

五徳姫の書状は、徳川方にとって単なるきっかけに過ぎませんでした。

当時の徳川家は、武田家に対して家康を中心とする権力中枢の主戦派と、岡崎衆の対武田外交見直し派に分裂していたわけですが、家康は五徳姫の書状を機に、宿老酒井忠次を信長のもとに派遣しました。
そこで、織田権力に従って対武田家との戦争続行と反対派処断の意向を信長に確認しただけです。信康にとって信長は義理の父になりますから、信康の処断については、信長に許可を仰いだと言っても良いでしょう。

同盟相手でもあり、また他家のことなので、信康の処断については、信長は「判断は任せる」と返答していますが、全体としては武田家に対する方針に関する問題についてですから、五徳姫の書状を隠蔽する必要までは無かったわけですね。
家康にとっては、書状は、むしろ積極的に利用するべき材料だったとも言えます。

ica********さん

2017/6/1520:12:02

信長に迫られて我が子と妻を庇いきれず殺害したでは、天下人となった

家康の面目が立ちません

徳姫による十ニカ条の書状が正当であるから、切腹させたという事に

したのでしょう

其れでなければ徳川の天下になってから、築山殿と信康の墓を質素な

ままに放置している理由がありません

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