ここから本文です

詩篇には「敵が破滅しますように」など敵を愛せよという新約聖書に一見反する表現...

wak********さん

2017/6/2918:36:18

詩篇には「敵が破滅しますように」など敵を愛せよという新約聖書に一見反する表現がありますがどう理解したらいいですか?

閲覧数:
195
回答数:
9

違反報告

ベストアンサーに選ばれた回答

2017/6/3010:04:06

>詩篇には「敵が破滅しますように」など。。。

詩編は旧約聖書に収録されてはいるが、基本的に、ユダヤ人たちの神に対する賛美と願いを込めた祈りの句。特にダビデ王の作と言われるものが多くを占めていますね。

詩編が書かれた時、ここで「主」と呼ばれる神は、ユダヤ人にとって民族の守護神として崇め、賛美し、願いを込めて祈る対象だったわけで、ユダヤ人として戦いに挑んだり敵から攻撃を仕掛けられた時は、当然の如く、守護神なる「わが主」に「敵を径滅して下さい。」と願う。

こりゃ当然の事でしょう。
詩編を書いた人、つまり願っていた人は、神を自分たちオンリーの見方だと思っているのだから。

ところが、新約聖書とは、イエス・キリストの教えがその核となって書かれたもの。

イエスの教えは、旧約で説かれている神は、ユダヤ人オンリーの守護神ではなく、愛に満ちた全人類の創造主としての神である、としている。

だから、汝の敵を愛せよ。と。イエスとしては、こんな教えも出てくる。

ただ、イエスの教え、新約聖書に込められているのは、旧約聖書の教えを否定しているわけではなく、イエスによる旧約の教えを解釈しなおしたもの、とされているね。


旧約聖書と新約聖書の関連が配線スパークしてしまった神学者など、旧約聖書不要論まで唱えたんですよ。
マルキオンなる人物がそう。彼は異端とされちまったが。

。。。で、旧約聖書の教えを無理くりに新約の教えに当てはめると、beath_of_blessingことブレス君のような解釈も出てくる。

ブレス君の考えは、「聖書の言葉」は絶対なので、間違うことはない。という信仰に基づいての発言だから、無理くりの解釈になっちまう。


結論ですがね。こういうのを「混ぜるな危険」と言います。

もともと異なる作者が、異なる時代と場所背景で書いたそれぞれの文書を、色々吟味して編纂したものがいわゆる「聖書」なんだから、ところどころの文章をピックアップして比較した場合、矛盾するのは当然なわけです。

聖書は教会の指導者たちが、信徒を指導する際の「教書」として使っていた文書類だったわけだから、どの部分をどのように使用するかは、指導者によってきめられていた。だから、「一冊の読み物」として理解するのは難しいのではないか。

それぞれ、異なる場面によって使い分けましょう。

コーヒーに塩入れたって、うまくないだけです。

下のoshirisutanuki君はコーヒーに塩どころか、唐辛子まで入れて、「飲めたもんじゃないですよ」と言っているだけです。

このように思います。

質問した人からのコメント

2017/7/2 17:13:49

ありがとうございます。

ベストアンサー以外の回答

1〜5件/8件中

並び替え:回答日時の
新しい順
|古い順

dol********さん

2017/6/3022:32:56

また oshirisutanuki がユダヤ人差別をしているのか。そんなにホロコーストを繰り返したければネオナチに入れば良いものを。そして、こういう悪意を拡散したがる dmqeon という愚か者がいるのも始末に負えない。

まあ、とにかく。

> 「敵が破滅しますように」など敵を愛せよという新約聖書に一見反する表現がありますが

新約聖書にも「敵が破滅しますように」という表現がある。典型的にはヨハネ黙示録であり、パウロの「呪われよ」という呪詛だ。一方で、旧約聖書にも「愛の神」という表現がある。典型的にはホセア書だ。

だから、旧約聖書の「復讐の神」が、新約聖書の「愛の神」になった、みたいな一方的な見方は誤りだ。どちらにも「愛の神」と「復讐の神」の両面が見られる。では、この矛盾をどう理解したら良いだろうか?

マザー・テレサは「愛の反対は憎しみではなく、無関心です」と言った。裏を返せば、愛と憎しみは表裏一体ということだよ。決して別々のものではない。人は、相手を愛しながらもどこかで憎み、相手を憎しみながらもどこかで愛している。どちらか一方ではなく、両方の感情を同時に持っているんだよ。

文学作品では、そういうのがよく描かれるよね。深く愛したがゆえに、激しい憎しみを持つようになった人。憎むべき敵と共に過ごし、憎み続けることができなくなった自分に思い悩む人。「敵を憎め」は「敵を愛せ」の裏返しであり、「敵を愛せ」は「敵を憎め」に簡単に変わってしまうんだ。

だから私はね、「敵をも愛するなんて素晴らしいことだ!」なんて脳天気に言う人なんぞ、信じることはできない。そういう人は自分の中にある憎しみをキレイゴトで覆い隠し、やがて自分の憎しみが腐敗臭を発しているのに、自分ではその臭いに気付かない。ここでは sensnec_14569 や breath_of_blessing という人が、残念ながらそういうタイプの人間だ。「気に食わない奴が早く死ぬことを祈るのも信仰的には問題ない」とか、本当に馬鹿じゃないだろうか。

そうではなく、私はむしろ「どうかあの憎い奴を滅ぼしてください」と涙を流しながら祈る人にこそ共感を覚える。その人は、自分の中にある憎しみを自分で知っている。それが悪いことだと分かっているから涙を流し、自分では手を下せない。だから、神に裁定を求める。公平な裁きを求める。どうしようもない自分に、慰めが与えられることを祈る。それが「罪を覚える」ということだ。

そして、祈りによって慰めを受けたとき、人の憎しみは愛に変わる。「敵を愛せ」というのは、少なくともイエスの語ったことによれば「祈り」によるものであり、慰めを受けたことによる「罪の赦し」のゆえなんだよ。だから、これは「そうした方が良いですよ」みたいな倫理道徳ではなく、徹頭徹尾、宗教的な話なんだ。

---

いみじくも specialgoodgod_carrier さんが述べたように、聖書というのは、異なる時代と場所背景で書かれたものだ。だから、vairocana_06 さんのように「人は理屈で生きていける」と信じている人には支離滅裂に見えるだろう。

だけどね、「敵を憎む」ということと「敵を愛する」ということが表裏一体にあるということを、人生において経験している人にとっては、どの時代の叫びであっても、どの時代の祈りであっても、どれもが人間の真実を映し出しているんだよ。

2017/6/3016:58:36

聖書そのものが矛盾に満ちているから、そのことについては別に気にしなくてもいいと思います。旧約聖書の著者と新約聖書の著者では、文化も経済力もちがいますから。

江戸時代の作家が現代を舞台にした作品なんて、よほど想像力がたくましくない限り書けません。旧約聖書と新約聖書とは400年もの開きがあります。

旧約聖書の詩篇の著者であるダビデと、それを書き写した福音書の著者では、倫理観が全然違います。ダビデは、残忍ではなく、むしろ性格が良い王様だったけど、その当時の状況において、周囲の帝国に取り囲まれていたら、いつ自分たちが滅ぼされるか心配で仕方なかったので、詩篇で「敵が滅びるように」と書いたでしょう。


新約聖書の著者においても、より悲惨な状況なんですが、あえて誰も守れないと思える律法をぶちまけたのです。そうしないとキリストが十字架にかかった理由が説明できなくなるからです。

誰も守れない戒めだらけにすれば、キリストの権威が増し、全ての人は罪人という自覚がもてるからです。どんなに善良な人も神様の前では罪人ということが説明できなくなるからです。

ただし、「敵のために祈れ」というのは、文字通りに敵が、迫害する者にも、神様の祝福があるようにという意味なんです。それって誰も厳密に守ることはできないです。

できないこと、憎むべき敵でさえ愛しなさいという神様の命令を守りなさいといっても、普通の人間にはできないから、だから、神様に助けを求めなさいという意味なんです。

新約聖書でも旧約聖書でも、著者が違うので思想が異なり、もし旧約の著者が新約の言葉を知ったら、そんなことできるわけないだろう。とか、戒律を忠実に守れば自力で救われるからと思っている著者もいたかもしれません。旧約聖書の「救い主」とは、精神的な意味での救い主ではなく、イスラエルを再建させる救世主、政治的な指導者のことなんです。

osh********さん

2017/6/3010:25:27

聖書はバビロニヤやアッシリヤなど強大な帝国に囲まれ属国とされ辛酸を舐めたユダヤ人の復讐心と憎悪によって書かれた書物です。

唯一神というのは絶対に異教の神々の存在を認めないということなので、それ自体排他的な独善主義です。

バビロン捕囚で辛酸を舐めたユダヤ人が、唯一神=独裁的な権力装置によってイスラエルを強い国家として再生するために考案されたものです。

イスラエルのカナン侵略戦争を約束の地として正当化するために発明されました。

神が殺せと命じるとき
あなたの神、主が、あなたの行って取る地にあなたを導き入れ、多くの国々の民、ヘテびと、ギルガびと、アモリびと、カナンびと、ペリジびと、ヒビびと、およびエブスびと、すなわちあなたよりも数多く、また力のある七つの民を、あなたの前から追い払われる時、すなわちあなたの神、主が彼らをあなたに渡して、これを撃たせられる時は、あなたは彼らを全く滅ぼさなければならない。彼らと何の契約もしてはならない。彼らに何のあわれみも示してはならない。

(申命記7章1〜2節)

第一次世界大戦に敗れ辛酸を舐めたドイツにファシズムが現れ国家を再生したのと状況は似ています。

キリスト教団は意見の異なるものは異端として排除し、処刑し抹殺しました。

聖書の神ヤハウェは軍神であり妬みの神だからです。。



詩編
137:8 破壊者であるバビロンの娘よ、あなたがわれらにしたことを、あなたに仕返しする人はさいわいである。
137:9 あなたのみどりごを取って/岩になげうつ者はさいわいである。


モーゼの十戒
出エジプト


あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。 ... あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。


異教の神に誘うものは親兄弟でも殺せ

申命記
13:6
同じ母に生れたあなたの兄弟、またはあなたのむすこ、娘、またはあなたのふところの妻、またはあなたと身命を共にする友が、ひそかに誘って『われわれは行って他の神々に仕えよう』と言うかも知れない。これはあなたも先祖たちも知らなかった神々、

13:9
必ず彼を殺さなければならない。彼を殺すには、あなたがまず彼に手を下し、その後、民がみな手を下さなければならない。
ーーーーーーーーーーーーーーー
異教の神殿は破壊せよ

申命記 ...... 7:5 あなたのなすべきことは、彼らの祭壇を倒し、石柱を砕き、アシェラの像を粉々にし、偶像を火で焼き払うことである。
聖書には
偶像を燃やせという文言もあります。

申命記 ...... 7:5 あなたのなすべきことは、彼らの祭壇を倒し、石柱を砕き、アシェラの像を粉々にし、偶像を火で焼き払うことである。

12:1 これは、あなたの父祖の神、主が、あなたに与えて所有させようとしておられる地で、あなたがたが生きるかぎり、守り行なわなければならないおきてと定めで ある。



13:15 あなたは必ず、その町の住民を剣の刃で打たなければならない。その町とそこにいるすべての者、その家畜も、剣の刃で聖絶しなさい。

13:16 そのすべての略奪物を広場の中央に集め、その町と略奪物のすべてを、あなたの神、主への焼き尽くすいけにえとして、火で焼かなければならない。その町は永 久に廃墟となり、再建されることはない。


13:18
わたしはその偶像をことごとくこわす。 これは遊女の価から集めたのだ


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

マルコ福音書16/16 新共同訳
信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は
滅びの宣告を受ける。

第2テサロニケ書簡2/12
こうして、真理を信じないで不義を喜んでいた者は皆、
裁かれるのです



こうした聖書の記事はキリスト教徒によって実行にうつされました。

そして、キリスト教徒はインディオの子供の頭を岩や木に投げつけ、生きたまま犬の餌にしまし た。


キリスト教徒のインディオ殺しは残酷で、例えばインディオを13人ずづ絞首台にかけ下からは小さい火を燃やし、絞め殺すと同時に焼き殺したのです。何故 13人ずつかと言うと、救い主のイエスキリストと12使徒の名誉のためでした。また、インディオの子供の頭を岩や木に投げつけ、生きたまま犬の餌にしまし た。


●● ●ピューリタンによる聖絶●●●●
1620年にイギリスからアメリカへ移り住んだ(清教徒)の半数は最初の年の冬を越せずに亡くなっていますが、彼らを全滅から救ったのがインディアンです。

だが、ピューリタンは自分たちを新ユダヤ人と称し、聖書を引用しながら、
新大陸を約束の地カナンとして、北米の先住民を神の許しのもとに殺戮しました。1600万人の北米インデアンが殺戮され、ほぼ人種絶滅につながりました。
2000年前のことではないのです。聖書の文言が神の言葉とされる限り、状況によっては今後も繰り返されることなのです。
ジョージ・ワシントンは、イロコイ族絶滅作戦を指揮し、「彼らを徹底的に根絶やしにするように」と指令した。ワシントンは兵たちに、殺したインディアンの皮を剥ぎとらせ、軍装の飾りにさせた。
ーーーーーーーーーー
マタイ福音書、10:34

「わたしが来たのは地上に平和をもたらすため・・・ではなく、剣をもたらすため」であると言い、また、「わたしは敵対させる. ために ... しかも主イエスは、21節にもあるように、血を分けた親子が、兄弟が殺し合う、. 敵となる、

イエスは弟子たちの勧誘に耳を傾けない街は「ソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む」と恫喝して凄んでいます。

マタイ10:14あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。
15はっきり言っておく。裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む。」

広島 長崎はソドムとゴモラなのか?

プロテスタントの牧師キュンネト(Künneth)も、原子爆弾は隣人愛の為に使えると主張しました。それはあの広島・長崎原爆投下の十三年後の事でした。


アメリカ合衆国のプロテスタントやカトリック教会の司教達も日本への原爆投下のために尽力した。1945年8月5日、パイロットが自分の母 親の名前を命名したB29爆撃機「エノラゲイ」がティニアン島から離陸する直前、牧師が、「あなたを愛する者の祈りを聞き届けてくれる全能の神よ、お願い です、あなたの天の高さに向け、我々の敵と戦う乗組員を守って下さい。。。これからも我々はあなたを信頼しながらこの世の道を歩みます。。。(全テキス ト: H. Gollwitzer "Die Christen und die Atomwaffen" 1957からの引用)」と祈りました。

聖書はバビロニヤやアッシリヤなど強大な帝国に囲まれ属国とされ辛酸を舐めたユダヤ人の復讐心と憎悪によって書かれた書物...

sen********さん

2017/6/3000:27:40

「敵が破滅しますように」←これは祈りです。

「敵を愛しなさい」←これは命令

相反するというか、もともと異なる立場から異なる方向に向けて語られた言葉ですから、「矛盾」はしてません。

聖書で大切なのは、何を祈るか(祈りの内容)、ではなく、何に対して祈るか(祈りの対象)、です。いうまでもないことですが、神以外の対象(他宗教の「神」、仏、太陽、月、「ご先祖様」など)に祈ることは大きな罪です。しかし、神に祈るのであれば、基本的に何を祈っても罪にはなりません。極端な話、気に食わない奴が早く死ぬことを祈るのも、信仰的には問題ないと考えます。ただ、その祈りが神様に聞かれるか否かは別ですが。

2017/6/2921:17:51

いつまでも神様(及びその信者)に敵対する者を、(最終的には)神様が公正をもって裁いてくれるように、との願いです。

つまり、悪は裁かれるべきだという「正義」「公義」を求める祈り。
「正しい裁判が行われるように」ということ。



神は「愛」であると同時に「正義」であり、「聖」なるお方なのです(信者も含めて、多くの人、特に悪いことをしている人は「愛」の側面しか受け入れたがりませんが)。

みんなで作る知恵袋 悩みや疑問、なんでも気軽にきいちゃおう!

Q&Aをキーワードで検索:

Yahoo! JAPANは、回答に記載された内容の信ぴょう性、正確性を保証しておりません。
お客様自身の責任と判断で、ご利用ください。
本文はここまでです このページの先頭へ

「追加する」ボタンを押してください。

閉じる

※知恵コレクションに追加された質問は選択されたID/ニックネームのMy知恵袋で確認できます。

不適切な投稿でないことを報告しました。

閉じる