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豊臣政権は重商主義、徳川政権は重農主義と言われますが、日本を豊かにするはどち...

the********さん

2017/7/2417:15:43

豊臣政権は重商主義、徳川政権は重農主義と言われますが、日本を豊かにするはどちらでしょうか?

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ベストアンサーに選ばれた回答

2017/7/2518:24:39

失礼で申し訳ないが、質問者さんの読んだ本は、西洋史または経済学に無知な作家のもののようです。

重商主義とは、「商業を重視する」ではなく、略奪や鉱山開発による重金主義と、極端な輸出超過による貿易差額主義があるのですが、どちらも貴金属の蓄積を目的とします。
輸入を厳しく制限したりはしなかった豊臣政権は重商主義ではありません。

重農主義とは、農業を重視しますが、同時にその自由な流通も奨励します。これも貿易を制限した徳川政権とは違う。

重商主義も、重農主義も、訳語が不適切なんです。金銀蓄積主義や農業自由主義などと訳すべきでした。

西洋の経済史的には、
重商主義→重農主義→古典的自由主義(初期の資本主義)→・・・・
となっています。
重商主義より、重農主義。重農主義より古典的自由主義。ここまでは定説というか常識と言うべきか。その先には諸説有ります。古典的自由主義に立ち返って、税金を安くすべきか、混合経済により税金を高くしても格差の是正に向かうべきか。

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ぷっくまさん

編集あり2017/7/2519:06:26

なんていうのかな、、、
単純に豊臣政権が重商主義というのは、どうなのかな?って思いますよ。

というのは、重商主義とは、単に貿易や流通を盛んにして、国富を増大させるというものではありません。
富とは金(や銀、貨幣)であり、国力の増大とはそれらの蓄積であり、これらの蓄積という目的があるのです。(重商主義における富が金や銀、貨幣としている点、富の蓄積を目的としている点で、資本主義経済とは違う)この蓄積がなければ、重商主義とはいえません。

で、16世紀中ぐらいから、17世紀まで、日本国内の銀の流通量や保有量が激減したんです。なんで、流出してしまったのか?っていえば、明らかに貿易において、輸入超過だったんですよ。で、輸入超過になったことで、流通性が高く、決済力がある銀が国内から大量に流出してしまったんです。

で、なんで輸入超過になったのか?といえば、南蛮貿易や中国、朝鮮との貿易において、日本からさしたる輸出品がなく、輸出を支える産業がなかったんです。
一方で、輸入ですが、問題は鉄砲です。えっ?比較的早く国内生産ができるようになって、日本は最大の鉄砲保有国になったんじゃないの?って思われるかもしれません。
確かにそうなのですが、それが輸入超過の大きな原因の1つになったのです。

例えば、火薬。16世紀後半には一部で生産が可能になったのですが、軍事機密だったので、一般には広まらなく、その多くが輸入に頼らなければならなかったのです。また、部品に使われる真鍮の合金に必要な亜鉛の精錬は、日本では明治になってからはじめて可能になります。また、弾丸の鉛も日本では産出できなかったため、これも中国からの輸入に頼らざるを得なかったのです。

その金や銀を産出する鉱山は豊臣政権が確立すると、蔵入地として豊臣家の直轄地となり、簡単にいえば、金や銀は大量に産出されるが、豊臣家が完全に抑えてしまい、他の大名家は換金性の高い商品を製造するほかなくなったのです。

しかし、銀の流出が増大したということは、貨幣素材の銀が減るわけですので、商品に比べ貨幣の流出量が減り、貨幣の価値が上がります。となると、いわばデフレの状態が起きたのです。つまり、換金性の高い商品をいくら作っても、利益が上がらない、他の大名家はデフレに苦しんでいたんといえるのです。

で、鉄砲の製造や弾や火薬において、輸入に頼らなければならない一方で、二度にわたる朝鮮出兵で需要は減らなかったこともあり、これらの価格は下がらなかったどころか、値上がりしたことは想像できます。

どれだけ豊臣家に富が集中していたか?大坂の陣の前、徳川家は豊臣家に畿内の寺社の普請や寄進を奨励し、豊臣家の財を減らそうと目論んでいました。で大坂の陣で、浪人衆に金銀を配ることで、兵を集めていたため、秀吉が遺した財の備蓄がさほど残っていないと思われていたのですが、大坂城落城後、金銀あわせて約52万両も残っており、幕府はこれを没収しました。

つまり、豊臣政権下では豊臣家に富である金銀が集中する一方で、どんどん金銀が流出してしまう。で、デフレに他の大名家が苦しむという構造、、、、なんか今の格差社会に似ていませんか?

で、この豊臣政権で二度にわたる朝鮮出兵の損失が、さらに諸大名を苦しめます。
文禄役では死者、負傷者、脱走などの落伍者は併せて2万人も出たと言われています。(一説には5万人とも)慶長の役では、不明なのですが、かなりの損失が出たと考えられます。これらの数は武士だけでなく、水夫や荷役など非戦闘員も含まれていますが、いずれにせよ当時の人口を考えれば、かなりの労働人口の減少を招いたと考えられます。

さらに、慶長の役の前年、1596年9月に、慶長大地震が起きます。9月1日に伊予、4日に豊後、6日に伏見で連続して、M7以上の地震が連続して起き、豊後では死者700人以上、京・堺では1000人以上の死者が出ます。さらに寺社、家屋の倒壊が多数出ており、その被害は甚大だったのです。
これに加え、同年浅間山の噴火が起き、東信、上野の農村は、耕作は不可能となり、農村では村を捨てる者が続出し、荒廃しました。

文禄の役や地震や噴火などその復興に国力を当てるべき時期に、慶長の役で朝鮮に出兵したわけですから、諸大名の負担は苛烈を極めたと考えられます。

秀吉の死後、朝鮮から兵を撤退させるのですが、このとき真っ先に行わなければならなかったのが、後回しにされてきた国内の復興で、特に荒廃が進んだ農村の復興をしなければならなかったのです。

そのため、家康だけでなく、諸大名は農村へ財の投下を集中させざるを得なかったといえます。また、金銀の流出の問題は江戸時代前期まで、幕府の頭を悩ませることになったのですが、それが後の海禁政策ーつまり鎖国につながる一因となったのです。

このように見てみると、秀吉は自身への富の集中は成功したのですが、輸入超過と国外への金銀の流出に対しては無頓着で、国内の貨幣の流通量を減少させてしまったことから、秀吉の経済政策は重商主義とは言い難いといえます。またデフレを引き起こし、二度にわたる朝鮮出兵や大地震などで、秀吉の死の前後、国内経済を徹底的に疲弊させてしまったことは否定できません。

また、一方で政権を担うことになった家康や他の大名は、農村の復興に専念しなければならなかったことから、農本主義に政策を傾けていかざるを得なかったのです。

wss********さん

2017/7/2417:49:03

結論は明らかです。
幕末、密貿易で富を成した薩摩藩は最新の武器を購入し維新の原動力とします。

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goo********さん

2017/7/2417:33:57

その前の信長の初期的自由資本主義の方が一気に近代化したかもしれませんが目に見える成果が表れる前に信長が死んじゃってとん挫しましたからね。
やっぱり徳川の方じゃないでしょうか。

pio********さん

2017/7/2417:33:25

そもそもそれを言ったのは誰なのかな?

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