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なぜ人間には「意識(もしくは自己認識)」の能力が付加されているのでしょうか。 ...

gon********さん

2017/8/2613:25:34

なぜ人間には「意識(もしくは自己認識)」の能力が付加されているのでしょうか。


人によっては自意識のことをタマシイと呼びますが、意識も脳という物理的な身体機能が備わっていなければ

発生しません。ですから、肉体を離れた魂なるものは(即物的に捉えるなら)否定されるべきものと思います。
実際に脳機能が障害を起こせばボケたりしてしまいますよね。そのような場合は自分がどこにいて昨日何をしたかという事すらわからなくなってしまいます。ですので、意識は純粋に脳の働きの結果だということはわかるのですが…


しかしながら、自己意識というものがなぜ存在するのかがいまだにわかりません。
通常は「個々の肉体という入れ物に、個別に対応する一つの意識が備わっている」わけですが、なぜそのようになっていなくてはならないのでしょうか?
もっと言えば、なぜ自分は福山雅治ではなく、志村けんでもなく、瀬戸内寂聴でも宮沢りえでもなく、「私」なのか?ということがわかりません。

この個別の認識を持っているという事の不思議さがいまだに謎です。
そのように思ったことはありませんか??
また、「君の名は。」などでも「意識が入れ替わる」というシチュエーションの小説や映画がありますが、そういったことは実際に起こりえるのでしょうか?

なんか質問としてまとまってなくてすみませんが…

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noi********さん

2017/8/2710:56:34

質問者は、意識は、ヒト固有のものというお考えのようだが、意識の定義については、諸説ある。

私は、意識とは、感覚器の反応系が、意識の始まりという説が好きです。プラナリアなどの原始的な生物が、光に反応したり、餌のにおいの方向に移動したりといった、単純な反応系が、徐々に進化して、ヒトという、極めて複雑な社会を営むことによって、生物界の生存競争に圧倒的有利になったと考えます。

つまり、私の考えでは、意識は初期の単純な神経系を持った生物にその萌芽をみることができ、徐々に発達したということです。

自己と他者の関係というのは、複雑高度な社会を営むのに必須の機能なので、その機能が高い者ほど、進化淘汰圧に打ち勝って遺伝子を残してきた結果でしょう。

但し、進化は偶然の突然変異であり、合目的性があるわけではありませんので、かつては有利であったが、今の社会ではかえって有害になってしまった機能もあります。例えば、長期間のストレス持続による偏桃体の異常で発症する鬱病など。こういった、有害な要素が進化により克服されるには、何十万年何百万年とかかるので、遺伝的変化が生じる前に、社会システムの方が変化してしまう可能性が高そうです。


意識が入れ替わるというのは、フィクションの世界での話です。

なお、私個人としては、現代科学が把握できない未知の事象、精霊とか、山や木や岩にも意識があるとか、そういった考えが大好きです。

現代とは、かつてのアミニズム信仰や西欧キリスト教信仰の神の地位を、現代科学という新たな信仰に置き換えたに過ぎないと思っています。 科学は、宗教と同様に、有益な面と有害な面の両方を併せ持ち、しかも、その精緻な理論体系を万人が理解しているのではなく、「偉い人が言っているので、<理解>ではなくて、<信じている>」という点で、似たようなものだと考えています。

  • 質問者

    gon********さん

    2017/8/2714:12:14

    個人的には「科学信仰」っていう言葉自体が完全に矛盾しているような気がします。科学は「それがどういうメカニズムであるか」を説明するだけで「なぜそうでなくてはならないのか」を説明できないからです。

    そもそも科学は論理と実験の検証に基づいているものなので、信仰の対象ではないですしね。


    「意識が入れ替わるのはただのフィクション」というのも、まあ個人的にもそうだろうとは思うんですが絶対にそうはならないという論理的で明確な証明ができない限りは、全面的にそうですよね~、とは言えませんけどね…

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asu********さん

2017/9/122:47:24

意識の能力が付加されたのではなく、認識主体として単細胞から進化した結果の現在の矛盾の自己運動のあり方です。■

por********さん

2017/9/122:17:29

自己意識がなぜ存在するのか?

素人考えですが、世界の人口が何人か解りませんが、この世の中に自分と同じ人間が存在しないという事は、科学的に証明されていますよね。一卵性の双子ですら違う人間です。

この世に自分とは同じ人間が存在しないのだから、人が生まれ意識を持った時点で「個別である」が確定されるのでは?

志村けんが自分を認識した時点で、もう1人の、物質、意識的に全く同じ志村けんは絶対に存在しないし、もし仮に自分と同じ人間がいたとしたら、それはその2人が寸分の狂いなく重なり合っている状態でなければならず、つまり自分と同じ人間は自分しかいないと言う事です。

個別の認識って質問の内容にあるような脳の働きの結果(意識)だけではないですよね。生まれた時に付けてもらう名前とか、鏡を見た時の容姿、見た目も「個別である」の判断材料なのでは。

bak********さん

2017/8/3023:30:23

確かに人類が未解決の課題なんですけど

結局は、感覚器(センサー)と受動反応器(判別)の仕組みが
原点になってる気がするんですよね

何か「光」が当たれば「まぶしい」と反応したりする
その仕組みの機能が意識の原点だと思うのですよ

もしも、目や耳がなかったら
何も聞こえないし何も見えませんよね
つまり光や音を認識することは不可能なわけで
光や音に対する意識はないことになりませんか?
匂いをかいでみたり触ってもらったり何か別の刺激に
反応することしか生物には出来ないと思います

それを突き詰めていくと
五感だの人間が感じる要素・神経を全て取り上げてしまったら
何も外界の刺激を感じられず、何も感覚がない状態になるはず
こうなると、自分に意識・心はあると言っても
かなり何もわからない状況に追い込まれると思いませんか?

もしも生まれた赤ん坊が生まれつき五感なにもないとしたら
(それじゃ生きて行けないだろ、という突っ込みじゃなく)
その後どういった意識を持つのだろうか、としたら
物凄く怖い感じがします、だって外界のこと何も感じられないのですよ
本人には宇宙の存在が感じられるのだろうか
なーーーんにもわからない気がするんですよ

これは自分の想像だけの話で、何も根拠はないのですけど
センサーが光を捉え、それを判別するコンピュータという仕組みには
我々と会話が出来ないだけ、通じ合えないだけで
何かしらの意識はもしかしたらあるのかも知れない
少なくとも「光が当たってます、光が当たってません」
という識別はしてるわけです

本当に感じてるのか?どのように感じてるものなのか?
というクオリアになってくると、もうどう仕様もない話ですけどね

pla********さん

2017/8/2922:12:24

医学で意識ありと言われるときは覚醒した状態のことを指しますが、その覚醒の度合いは、どの程度周囲の状況を知覚や認識できるかで調べられます。意識が低下していると知覚はできても認識はできないことがあるので、意識において重要なのは認識のほうであると考えられます。
意識は一般的に、自己の状態や周囲の状況についての認識であるとされます。周囲の状況についての認識は先述したものと同じですが、この他に自己の状態についての認識もあるわけです。周囲の状況についての認識は生きていくうえで重要なものですが、では、自己の状態についての認識としての意識は、なぜ備わってきたのでしょうか。
まず周囲とは、自然環境および社会環境のことです。霊長類の脳の大きさ(正確には新皮質の相対的な大きさ)はその種の平均的集団サイズとのみ相関していることが発見されており、その相関図からすると、人間の集団社会のサイズは約150人だそうです。その実例は未開部族のバンド社会、近代までのわが国の村社会、軍隊における中隊(中隊の規模は、一人の中隊長の肉声が届く範囲におさまる人数だそうです)などで、人間の脳にとって十分認知し安定的な関係を維持できる人数の上限が約150というわけです。150人というとそれほど大人数でないかもしれませんが、しかし150人からなる集団社会内の人間関係の数は11175もあり、かなり複雑なものであるわけです。わたしたちが社会の中でうまくやっていくためには、諸個人のデータだけでなくそこでの人間関係もある程度把握している必要があります。というわけで、人間、その脳にとって、社会環境の認識もとても重要であるということがわかると思います。
さて、自然環境はわたしが一方的に認識するもの、つまり、わたしは自然環境を認識しますが、自然環境はわたしを認識しません(厳密には、一部の動物がわたしを認識することはあるでしょうが)。そして、わたしが自然環境を認識するとき、わたしは自己を認識することは可能であっても必要ではありません。たとえば30m先に熊を発見したとき、わたしは今自分が恐怖に襲われていると認識しなくても、ただ本能的に逃げればよいのです。
ところが、社会環境のほうはそうではありません。わたしは周囲の人を認識し、周囲の人はわたしを認識し、人には他者の心を読む能力(「心の理論」)が備わっていますので、それによりわたしは、「周囲の人が認識しているわたし」も認識することになります。それは、「他者を介した自己認識」です。一方、もともとわたしにはわたしの自己イメージがあり、これは「自己による自己認識」です。ということで、わたしの中には「自己による自己認識」と「他者を介した自己認識」の二つが存在することになります。
ところが、それらが参照するわたしについての過去の記憶内容はどうしても異なりますし、「他者を介した自己認識」にはどうしても他者の価値判断が混入してくるので、そのため両者の乖離が起こりえます。
わたしの中で二つの異なる自己認識が存在すれば不協和が起こり、わたしの心の中で緊張が高まります。そのため、二つの自己認識が(完全に一致することはなくとも)なるべく近づくように、わたしは思考や行動をするでしょう。また、「他者」はふつう複数ですので、「他者を介した自己意識」も複数あることになります。そうすると、以上の過程で起こると考えられることは、わたしが社会環境によってある程度規制されること、「わたしの社会化」であるように思われます。諸個人が勝手ばらばらに思考・行動するようでは、社会の秩序は保たれにくいでしょう。
ということで、わたしたちに自己の状態についての認識としての意識が備わってきたのは、わたしたち人間がより社会的な動物であることに関係している、わたしはそう考えています。
わたしの自己意識はわたしの経験、わたしについての過去の記憶を参照しているので、他人の自己意識とまったく同じになるとは考えられず、違っていて当たり前です。ましてや「意識が入れ替わる」ということは、ありえないです。フィクションの題材としてはとても魅力的なのですが…。

aim********さん

2017/8/2709:31:56

素晴らしいご質問ですね。
私はHinduの思想の精進修行をする者であり、その教えで行けば”こうこう、あぁあぁ”と結論が出てしまう。
つまり全包括的な意識とか存在者の存在から説くから。
それでは哲学カテの皆さんには問題外でしょう。

人間の「意識(もしくは自己認識)」って何でしょう。自分って意識。
多くの人は、そういう意識が受感,經驗,知覚し、判断するプロセスやその大体の集積記憶を以て自己だとしていることが多いですね。
だからその主格たる自己という意識ってちゃんとアクセスしていない。
まぁだから私の信仰精進する思想の理論が答えているのですが、科学と理論だけでは”こうだ”とは言えないところに踏み込みます。
http://www.yogananda-srf.org/
http://www.srf-tokyo.org/tokyo_group.php
つまり、RajaYogaです。
科学と理論を越えた領域にまで入らないと結論は出ないように私は思います。
回答にまで言及することは差し控えますが、せめて科学と理論がその結論の方向を指し示すことができないだろうかと思います。つまり科学と理論の自己限界を示してほしいなぁと。其れこそ前提と根拠を意識するための科学と理論の任務だろうと思っています。

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