ここから本文です

三国志 荀攸さんの足取りについて。時系列がよくわかりません。 192年4月、董...

vit********さん

2017/9/1508:56:03

三国志 荀攸さんの足取りについて。時系列がよくわかりません。


192年4月、董卓と劉岱死亡。
荀攸さん故郷潁川に帰るも復帰。

①任城転勤命令。→拒否。


②192年曹操兗州牧就任。

③自ら蜀郡太守を希望。

④194年劉焉死亡・劉璋牧就任。

⑤196年許都遷都まで荊州に滞在。

だと思うのですが、(そもそもこの時系列は合ってるのか?)

①荀攸復帰&転勤命令は王允か李傕かどっちの政権の可能性があるでしょうか?

②荀攸の任城国相就任は前任者の鄭遂が青州黄巾に殺されたから拝命した可能性があると思いますが、これを拒否しました。転勤命令が曹操の兗州牧就任のあとだったとしても、この時は曹操を(荀彧も)選ばなかったのはなぜ?正式な兗州牧じゃないから?

③④蜀郡太守になって中央を離れようとしたのは劉焉がいたから?それとも劉焉が死んだから?これは何年ごろの可能性がありますか?

⑤漢中側からならともかく、荊州側から入ってるのに交通が途絶…なんてことがあるんでしょうか?河を船でのぼるだけでは?益州側から拒否られているから入れないのだとしてもなぜ荊州に数年留まっているのでしょうか?荀攸さんはもうやる気スイッチがOFFなの?

もし荀攸さんが無事入蜀して蜀郡太守として劉璋に歓迎され、別駕とか州牧代理レベルまで出世した場合、その後の劉備入蜀は詰みますか?「雒城の荀攸」とか「白水関の荀攸」とか勝てる気しないんですが(つ∀≦。)・゚。

閲覧数:
286
回答数:
2
お礼:
100枚

違反報告

ベストアンサーに選ばれた回答

te9********さん

2017/9/1516:41:49

周辺が激変している

調べるのが面倒臭くも楽しい時期ですよね。思いついたことをとりあえず書きます。

①は基本的に李傕たちの政権によるものだと思います。
長安を離れたのはおそらく王允・呂布ー李傕らの戦闘の前後で脱出したものではないでしょうか。
呂布が敗走し、一旦戦争が終わると、再び懐柔をしようとしたのだと思います。
李傕らは暴虐ですが、懐柔の手も使います。官位をばらまいたり朱儁を取り込んだりしてるぐらいですからね。
荀攸も李傕に少しは期待を込めて公府の招集に応じたのでしょうか。

王允は基本的に断絶した関東と連携を取る方針だったと思いますから
独自に任命するというよりは、旧連合軍の人達と歩調をとる方針を取ると思います。

李傕はできればコントロールしたい側だと思うので。

②たぶん、時期的には兗州で曹操と黄巾で戦ってる頃だと思います。兗州内乱とでもいえばいいか。劉岱も死んでいわば無政府状態。
これに李傕らは一枚噛もうとしたのでしょうか、第三勢力として送りこんだつもりだったと思います。
三国志鍾繇伝には兗州平定後の曹操と李傕とで使者の往来があったことが記述されてます。その内容は「しょうがないけど追認してやるか」という消極的なものですので、元々は関係は良くなかったのだと思います。

荀攸としては故郷の潁川でやらかした李傕たちに顎で使われるのが嫌だった、とか
あるいは、曹操らと戦いたくなかった、揉め事に絡むのはごめんだ
という理由で赴任しなかったのでしょうか。


③は荀攸伝にある通り、再び暴政が始まってる長安よりは、蜀に行ったほうがいいという判断でしょうか。
今度は関東じゃなくて関西の諸侯で反李傕連合とかでもいいかとか考えていたかもしれませんね。

④あるいはこれが李傕政権の判断だとすれば劉焉の死んだ194年頃でしょうか。
劉焉の死ぬ前後で、劉障(元々都にいた)の後に扈瑁とかを益州刺史として送っています。
益州が案外手に入らないので独自の刺史を再び送った形でしょうか。荀攸もこれに前後して送られた人間の一人だったのでしょうか。

⑤劉焉は独立に際して道を遮断してたりします。(三国志劉焉伝)
おそらく漢中ー長安間で通行が不便だったのだと思います。
ですから荊州北部ー上庸ー漢中ー蜀ルート。

遠回りすれば荊州中部ー長江ー白帝ー蜀ルートなどが考えられます。

しかし劉障が死ぬと漢中の張魯と喧嘩したり、劉表と喧嘩したり(三国志劉焉伝など)してます。

なので通行ルートがふさがっててもおかしくないと思います。


*劉備の入植はそもそも益州に入れずに白帝辺りを塞いでれば防げると思います。騙されて一旦入蜀させてしまえば、もう取り返しはつかなかったと思います。

  • 質問者

    vit********さん

    2017/9/1616:44:38

    ありがとうございます。

    劉焉と何顒グループとの繋がりとかまで無駄に探りましたが何も出てこず。荀攸と劉焉の接点が見つかりませんでした。「自ら希望し、蜀に向かい、足止めされ、荊州にとどまる。」という行動パターンだけ二人共一緒でしたw

    ③がもし192~3年なら、荀攸は反李傕の劉焉を評価していることになりますよね。193年に劉虞は死にましたし、次の天下は色んな意味で最も献帝に近い独尊の劉焉が握ると踏んでもおかしくないはず。

    個人的に許劭とかはどうでもいいので、荀攸さんの人物評が一番聞いてみたいです。

返信を取り消しますが
よろしいですか?

  • 取り消す
  • キャンセル

質問した人からのコメント

2017/9/18 17:22:36

回答ありがとうございました。謎は謎のままにしておきます。

ベストアンサー以外の回答

1〜1件/1件中

プロフィール画像

カテゴリマスター

kou********さん

2017/9/1519:41:31

ん~~~~。もはやナゾとしかいいようがないのですが、いちおう。


この数か月は激動の時期なので、誰の命令かもようわかりません。

董卓が死ぬ四月辛巳=23日なのでそこから帰郷して・・・の流れですと、李傕政権くさくあります。王允の死は六月甲子(7日)と実質一月ちょいですんで。


となると、荀彧の任城相任命より曹操の兗州牧就任のが先になるでしょうかね。

たぶん、まだ曹操が絶賛戦闘中だったので、とても任地には赴けないというのが実情だったんじゃないでしょうか・・・どうなるかわからん状況ですし。
まあ、様子見でしょう。
あるいは、李傕政権からの任命ならそれが理由で拒否ったのかも。


これもよくわからない。
荀攸は公府に召されたとはいえ、実際に長安まで戻ったのか、それとも、故郷で辞令を受けたのか。
荊州ルートなので、私は故郷の潁川から蜀を目指したような気がしますが・・・。

長安にいたのなら、李傕政権から脱出する方便を使っただけで、本気で蜀に行く気はなかったということじゃないかと思います。
まあ、潁川にいたとしても、同じで、袁術から逃れただけかという気もする。


普通に考えれば、劉焉が死んだタイミングでしょうけど・・・。
長安にいたのなら、劉焉が李傕政権にちょっかいを出したのを見て、劉焉を利用して李傕らをぶっ倒そうと画策したとも思えます(で劉焉が死んだので頓挫し、荊州でストップ)。
劉焉が死んで、益州に乗り込む気になったのかもしれんし・・・どうでしょう。


まあ、劉焉が死んだタイミングでゴタゴタがあったので、その辺か。
荊州サイドでも、劉璋に反乱を起こした連中(甘寧とか)がいるし、長安側も張魯がいるし、そのうち、荊州南部では張羨の反乱なんかも始まるし(やや時期不明ですが)、という感じか・・・。
まあ、本気で行く気はなかった、ということじゃないかと思いますね。

荊州にとどまっているのも、長安政権、中原勢力、荊州の劉表、あるいは益州・・・といろいろ睨んでのことじゃないかと思います。
まあ、やる気がないというか、品定め中、という感じかなあ・・・。

だいたい、荀彧が異常で、どういうわけか、まだ無名の曹操に賭けてるんです。
この時期で、反董卓諸侯と距離のあった荀攸にしたら、中原の情勢もある意味冷静に、そんなすぐに誰かに付こうとは思わなかったかと思います。
その辺は、群雄割拠上等の諸侯とは違って、中央政府の空気を知ってる人の感覚が働いている気がしますね。


で、まあ荀攸さんが劉璋に仕えたとして、そしてどういうわけか劉璋に忠誠を誓ったとして、それでも、劉璋の側には獅子身中の虫がたくさんいますからね。
法正vs荀攸ですか・・・どうなることやらですね。それに荀攸の策を劉璋がちゃんと聞いてくれるかですね。もう、その辺から怪しい・・・。

返信を取り消しますが
よろしいですか?

  • 取り消す
  • キャンセル

あわせて知りたい

この質問につけられたタグ

みんなで作る知恵袋 悩みや疑問、なんでも気軽にきいちゃおう!

Q&Aをキーワードで検索:

Yahoo! JAPANは、回答に記載された内容の信ぴょう性、正確性を保証しておりません。
お客様自身の責任と判断で、ご利用ください。
本文はここまでです このページの先頭へ

「追加する」ボタンを押してください。

閉じる

※知恵コレクションに追加された質問は選択されたID/ニックネームのMy知恵袋で確認できます。

不適切な投稿でないことを報告しました。

閉じる