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イエスや弟子は庶民とのことですが 旧約聖書のことを知っていたのでしょうか。 ...

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ID非公開さん

2017/10/315:59:25

イエスや弟子は庶民とのことですが
旧約聖書のことを知っていたのでしょうか。
中身まではあまり知らなかったのでしょうか。
庶民の識字率のことを考えると
あまりよく知らなかったような気もしますが。

補足口伝だと何をどんな風に説明したのか不明ですね。

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ベストアンサーに選ばれた回答

2017/10/418:58:41

新約聖書を書いた人たちですら、旧約聖書は殆ど理解して
いなかったと思います。

何故キリスト教徒は、旧約聖書と新約の編者の認識のギャップ
を検証しないのだろうか、それができる人がいないと言う事なの
だろうか。
キリスト教の聖職者のレベルがお粗末すぎる様な気がします。

誤謬だらけのパウロ書簡
http://www.mars.dti.ne.jp/~fenot/jesus/cr_conf_1.html

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ベストアンサー以外の回答

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fake_basterさん

2017/10/417:29:18

イエスがどんな人間であったか、福音書で知るだけです。 しかし福音書はパウロがキリスト教を発明したあと20年以上経ってから、各地の教団の必要によって作られた物語です。 パウロは生きて活動したイエスには殆ど全く関心を持ちませんでした。イエスの十字架の死による贖いを考案することだけに関心があったからです。
イエスはマルコによる福音書の中で、わたしは律法を廃すために来たのでない、と言っていますが、これはパウロの律法についての教えと全く異なります。キリスト教はパウロの教理であり、イエスの教えではありませんから、生前のイエスのことを知っても意味はありません。彼の死だけが意味あることです、いずれにしても・・・。

thelamb827さん

2017/10/416:29:49

イエスキリストは、ただの人ではありませんでした。
子供のころから、旧約聖書に精通していたのです。


ルカによる福音書 2:42-50

"イエスが十二歳になった時も、慣例に従って祭のために上京した。

ところが、祭が終って帰るとき、少年イエスはエルサレムに居残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。 そして道連れの中にいることと思いこんで、一日路を行ってしまい、それから、親族や知人の中を捜しはじめたが、見つからないので、捜しまわりながらエルサレムへ引返した。

そして三日の後に、イエスが宮の中で教師たちのまん中にすわって、彼らの話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。 聞く人々はみな、イエスの賢さやその答に驚嘆していた。

両親はこれを見て驚き、そして母が彼に言った、「どうしてこんな事をしてくれたのです。ごらんなさい、おとう様もわたしも心配して、あなたを捜していたのです」。 するとイエスは言われた、「どうしてお捜しになったのですか。わたしが自分の父の家にいるはずのことを、ご存じなかったのですか」。 しかし、両親はその語られた言葉を悟ることができなかった。"

ルカによる福音書 4:15-16

"それからお育ちになったナザレに行き、安息日にいつものように会堂にはいり、聖書を朗読しようとして立たれた。 イエスは諸会堂で教え、みんなの者から尊敬をお受けになった。"

イエスキリストは、聖書の巻物を朗読しておられました。

聖書を読むことも出来ない人を、ユダヤ人たちが「メシア」や「先生」として尊敬するはずはありません。

kujirakueyoさん

2017/10/414:50:20

イエスが旧約聖書を読めた可能性について新約聖書にいくつかの
証言がある(マコ2:25、ルカ4:16以下、ヨハ7:14-15)。
ただイエスの弟子はそうではなかったらしい(使4:13)。
識字率については研究者の間でも様々だ。
後1世紀のパレスチナでは学校が普及していて初等教育が浸透
していたとサフライは言うが、ヘッツァーはエルサレムの、しかも
エリートに限られていたと言う。
ラビ伝承には前1世紀あるいは後1世紀のパレスチナに
初等教育の学校が普及していたという記述があるため、
これをどう評価するかによって、このような見解の相違ができてしまう。
ただ、現在はこれらのラビ伝承を額面通りに受け止めることに
慎重な流れとなっている。またアルファベットを記した史料が
ガリラヤを含めてパレスチナ全域でみつかることから
かつては初等教育の学校が普及していた証拠とされたが、
史料が出土するのは墓場であることから、この説は支持できない。
イエスの時代のガリラヤに学校が存在しなかったとしても
シナゴーグ(会堂)は存在した。新約聖書にもナザレにシナゴーグが
存在したとの証言がある(マコ6:2)。考古学でも
ガリラヤから後1世紀のシナゴーグがいくつか見つかっているが、
近年、日本の調査隊によってナザレ近郊から後1世紀前半の
シナゴーグが発掘された。イエス時代の教育は原則家庭で
行われたと思われるが、シナゴーグでは日曜学校みたいに
旧約聖書について子供に教育が行われていたはずだ。
ただ注意してほしいのは、シナゴーグで子供に
教育が行われたといっても、それは読む、それも旧約聖書を
読む技術であって、書く技術じゃないからね。書くのは
書記という専門職の人がいて、そういう人たちは徒弟制度で
そういう技術を修得した。まあ、簡単な書く力はあっただろうけど。

2017/10/410:36:26

2000年前にさかのぼって、考えてくだい。

イエスの弟子は、猟師です。

読み書きの出来る猟師がいたでしょうか。

大卒でもなく高卒でもなく、学校というものすらあったかわからないでしょう。

doltotiさん

2017/10/410:31:09

また oshirisutanuki が変な電波を受信しているようだが、

> Jewish Literacy in Roman Palestine - 523 ページ

あのさ、C. Hezser, Jewish Literacy in Roman Palestine (Mohr Siebeck, 2001) の 523 頁は参考文献一覧だよ。お前はいったい何をコピペしたんだ。馬鹿者め。

当時の識字率を 3% 以下と見積もったのは Hezser ではなく、M. Bar-Illan な。彼は地域によっては 10%-15% 以下という試算も挙げるが、農村地帯では 1%、ゆえに全体の平均では 3% 以下だったろうと言う。

だが、Hezser 自身の関心はそこではない。Hezser のユニークな点は、いわゆる文書らしい文書だけでなく、陶器や石碑に書かれた文字も「書きもの」と見なし、それらの使われ方を網羅的に調査したことだ。

その上で Hezser が主張しているのは、当時のユダヤでは「書物」よりも「口伝」による教育が盛んだったのだろう、ということね。口伝で教わったものを思い出すには「シンボル」が有効で、そのために文字がシンボル的に用いられていたわけだ。

実際、ミシュナやトセフタといった当時の文書を見ると「話し言葉」の要素がかなり入っているんだよ。だから、口伝と文書化は同時期に行われていただろうが、どちらにより重きがあったかというと口伝だっただろう。

だいぶ昔、20 世紀初頭になるけれど、M. H. Segal なんかはすでにこのことに気付いてた。だから彼は、ミシュナ・ヘブライ語はアラム語との混成言語であるという当時の定説をひっくり返し、ミシュナ・ヘブライ語はもともと「話し言葉」から来ていると主張したんだ。

こうした見方は、近年に言われていた「ユダヤ教は書物の宗教である」という色眼鏡を再び見直すものとなる。同時に、Hezser (2001) の書評を書いた G. Snyder が言うように、文献が見つからないからといって、それが当時重要ではなかったとは言えない(だって口伝が主なのだもの)というややこしい議論を起こすものでもある。

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