ここから本文です

日本史 歴史 丁未の乱について 蘇我氏と物部氏の対立について 始まりから...

織田信長に捨てられた里芋さん

2017/10/919:47:22

日本史 歴史

丁未の乱について

蘇我氏と物部氏の対立について

始まりから 決着までを詳しく教えてください

閲覧数:
138
回答数:
2
お礼:
500枚

違反報告

ベストアンサーに選ばれた回答

pin********さん

2017/10/1108:49:26

587年7月の「蘇我馬子」VS「物部守屋」の、二人の官僚の主導権争いの一部始終に付いて書いてみます。
587年を遡る、47年前の540年に「欽明」が即位します。
この時の、主力官僚は、蘇我稲目(馬子の父)、大伴金村、物部尾輿(守屋の父)の三人なのですが、直後に、大伴金村が、半島の任那問題で失脚し、事実上、「蘇我と物部」の二強時代になります。
「大伴金村」絡みの失政で、半島の任那(倭国の直轄地)を百済と新羅が分捕り合戦をするのですが、高句麗の南下を阻止する為に、一時停戦し、任那を含め、共同で高句麗の漢城を奪還します、しかし新羅が裏切り単独で漢城をかすめ取ってしまい、百済を戦闘状況になり、百済聖明王は倭国に対して軍隊の派遣要請をしてきます。この時百済は、見返りとして552年に釈迦仏像や経論などを送ってきます。
これが、一般に言われている仏教公伝で、この時、第一回目(欽明時)の「蘇我稲目と物部尾輿」の、崇仏廃仏問題があります。その年に「物部尾輿」死亡して、蘇我一強です。
571年に「欽明」が崩御し、572年に「敏達」即位し、「蘇我馬子(稲目の子)と物部守屋(尾輿の子)」が官僚で、次世代の対立です。
585年に、第二回目(敏達時)の「蘇我馬子と物部守屋」の崇仏廃仏問題勃発です。
585年に敏達崩御し、「用明」即位です。
そして問題の587年(丁末)4月の、第三回目(用明時)の「蘇我馬子と物部守屋」の崇仏廃仏問題の再燃で、5月の「丁末の乱」です。
最終的に「藤原系」が登場するまで「蘇我系」の一強時代の確立です。
ここまで、「日本書紀」の「蘇我と物部」の崇仏廃仏闘争を長々と書いてきましたが、質問者の方は、本当に「天皇三代にわたる、蘇我と物部の対立が、崇仏廃仏の一点であると考えられますか?」。
考古学的には、「渋川廃寺」は、「物部が建立した寺」で、物部も「仏教」を受け入れていたのではないかと考えられています。
この様な事を考える時、近畿の王族の官僚である「古い時代からの官僚、物部氏」と「新興の官僚蘇我氏」との主導権争いが原因の権力闘争ではないかと思います。
ここからは、トンデモ史観ですが、「稲目の堅塩媛と小姉君という同母の姉妹が欽明に入っています」。
「堅塩媛」の子が「用明、推古」で、「小姉君」の子が「崇峻、穴穂部皇子、穴穂部皇女」で、いろいろな事件の経過を見ると、「堅塩媛(蘇我系)」VS「小姉君(物部系)」という感じで、「蘇我VS物部」の権力争い根本のように思うのですが如何なものでしょうか!
ご理解の参考に成りますでしょうか!

ベストアンサー以外の回答

1〜1件/1件中

rei********さん

2017/10/1009:44:02

干支で歴史的事件を表すのは不便でしかないですね。

中国でも使わないのに。

弓削守屋の討伐なら、仏教導入推進の蘇我氏と、神職で権力をものにした物部氏の対立から起きています。

あわせて知りたい

みんなで作る知恵袋 悩みや疑問、なんでも気軽にきいちゃおう!

Q&Aをキーワードで検索:

Yahoo! JAPANは、回答に記載された内容の信ぴょう性、正確性を保証しておりません。
お客様自身の責任と判断で、ご利用ください。
本文はここまでです このページの先頭へ

「追加する」ボタンを押してください。

閉じる

※知恵コレクションに追加された質問は選択されたID/ニックネームのMy知恵袋で確認できます。

不適切な投稿でないことを報告しました。

閉じる