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三国志の世界で降伏は恥だったのですか?

msk********さん

2017/10/2510:47:21

三国志の世界で降伏は恥だったのですか?

戦わずして逃げたならそうかもしれません、またあまりにも降伏回数が多ければそれもそうかもしれません。しかし報徳のように全力で戦った結果捕らえられたのなら死なずに、運がよかっただけでしょう。しかも曹操に仕えてそんなに日数もたっておらず、全力で戦えばそれはそれで恩義は十分果たしたでしょう。それにかつて使えていたバチョウや報徳の兄ホウギもゲントクno
配下になっている。そこで忠を尽くして活躍するのも恩に報いることになるでしょう。。
なぜ蜀に降って、かつての君主のバチョウに報いるという発想はなかったのでしょうか?やはり単なる意地でしょうか?そこで誰が報徳を馬鹿にできましょうか?

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nad********さん

2017/10/2513:01:06

どの国の将軍にも当てはまりますが人によると思います。
封建制なので御恩と奉公の関係です。
主君をありがたいと思い、主君のためならと思う人は恥だと思いますが。
そんなの思わない、主君が酷すぎると思う人は形勢不利なら降伏を即座にするでしょうね。

  • 質問者

    msk********さん

    2017/10/2513:08:25

    >主君をありがたいと思い、主君のためならと思う人は恥だと思いますが。 命がけで戦えば十分恩義に報いているでしょう。報徳は十分戦った。それなのに死を選んでしまった。やはり命を粗末にする愚行を行っている・・・あれだけの人間生きていればどれだけ手柄を立てれるか。英雄なら恥をしのんで、生きながらえ手柄をどんと立ててしまえば誰も文句はいいますまい。やはり報徳も英雄という器ではなかったという事でしょう。

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zun********さん

2017/10/2711:42:35

陳寿は龐徳を前漢の周苛になぞらえ、曹丕は降伏した于禁よりも龐徳の死にざまを評価して子孫を取り立てるなど、同時代で龐徳の進退が好評だったことは事実です。
曹操ですら、ともに水に飲まれた于禁、龐徳の進退を聞いて、于禁の方に落胆を見せます。

もちろん降伏して長らえるという道を選ぶ人も多いし、捕虜の境遇から帰国して、後に活躍した人もいるから、価値観の一つでしかないし、ケースバイケースでもあります。

ここからは龐徳の選択肢について考えてみましょう。

蜀に降って馬超にむくいてもよかったという考えは、かならずしも肯定できません。
馬超は張魯のもとを去る時に、龐徳を置き去りにしたか、袂を分かった可能性があります。
書物によっては馬超は生き残っていた妻子も置き去りにしたため、張魯によって殺されたといいます。

龐徳が自分の意志で張魯のもとに残ったのだとしたら、張魯が劉備を嫌っていたという感情に、龐徳も同調したかもしれません。
馬超も、いつまでも配下が従ってくれるような人物かというと、疑問があります。どちらかというと野獣のような印象の人で、彼自身が人を疑うところもあります。

また、馬超が張魯のもとで驥足を伸ばせなかった理由として、張魯の配下が馬超を酷薄の人と謗ったのが原因とされています。
もし龐徳が、家族を魏に残して蜀に降ったら、やはり謗る人がいて劉備や諸葛亮に任用されない恐れはあります。

劉備は、成都包囲戦で自分に降ろうとした許靖を、進退が見苦しいと感じたためにすぐには重用しませんでした。

したがって「周囲の誹謗を気にせずに、働きで応えればいい」とあなたが書いているのは、一面では正しいですが、機会が巡ってこなければ働けないということも考慮すべきと思います。

次に魏に帰国してまた働けばいいという考えですが、これも巡り合わせによっては困難となります。
結果論になりますが、降った于禁は帰国後に曹丕によって辱められ、憤死しています。
ひるがえって龐徳にはまともな諡号が贈られ、子供が取り立てられるという厚遇ぶりです。

曹丕が国君にあったということを不運と見ることもできますが、人材登用に心眼を備えていた曹操でも間違いを起こすことがありました。
人の浮沈は難しく、自分には軍才があるから機会がまた与えられると考えるのは、やや楽天的に見えます。
呂布は「自分を登用すれば天下をとれる」といったものの、結局は処刑されます。

恩は返したからといって降ってしまう武将がいて、信用して軍を預けられるか、という問題があります。
また、魏軍はこのとき後方から次々と援軍をくり出しており、戦線にある城や将のつとめは、一日でも長く戦いを継続することだったともいえます。
荊州を蜀と呉で二分した時の紛争で、情報不足の蜀将が、あと少しこらえていれば城を守りぬけたのに、呉に降ってしまったという事件があります。

于禁とともに降った兵士たちは、おそらく呉軍に移された末に、その地で民とされたか、奴隷となったことでしょう。
将という身分があれば、捕虜交換とか外交の材料として帰国できる見込みがあります。しかし一般の兵には有り得ない事です。

兵士は信頼できる将のもとでなければ、脱走しかねないものです。
龐徳が曹操に仕えて日が浅いうちに蜀に降ったら、「龐徳のもとにいては、またどこかに降るかもしれない」と不安に駆られるかもしれず、劣勢に立てば「龐徳に従っていると敵国の捕虜になる」と騒ぎ立てるかもしれません。

同僚からのいわれない誹謗は無視できても、兵士からの不信は無視できません。

len********さん

2017/10/2521:49:02

その前にまず、三国志の辞書を入れたらどうですか?

人名を正確に記入するのは質問の基本です。

ちなみに龐徳が馬超の配下である論拠はなんですか?

張魯時代、馬超の配下ならなぜ劉備攻めの時龐徳は馬超の元にいないのです?

諸葛亮と諸葛瑾のように兄弟とて別国に仕える例もありますが?

あまり三国志に詳しくないとお見受けしましたが、
そもそも龐徳の君主馬騰は馬超が反乱したために死んだことをご存知ですか?

sad********さん

2017/10/2512:25:07

状況によりますが、他勢力に降伏した人は沢山いますので、大きな恥辱というほどではありません。張遼・大史慈・黄忠とかがそうですね。

もちろん、降伏=敗北なので、

文聘「ろくに働きもできず、主君の土地を守れないとは情けない・・・」
張悌「国が滅びようとしているのに、それに殉ずるものがいないとあっては、国の恥ではないか!」

・・・といった感じで、降伏することを恥じる例も結構あります。



龐徳の場合、降伏したくない事情がありました。
質問者さんの言うとおり、劉備軍にはかつての主君馬超がいました。いとこも蜀にいます。
魏の人々はどう思うでしょうか?

「龐徳はドサクサにまぎれて、劉備軍に寝返るんじゃないの?」

これが当初の評価です。はじめから疑われていたんですね。
だからこそ、その疑念を晴らすために、

「私は命がけで戦う。関羽を必ず討ち取るか、失敗して私が関羽に討ち取られるかのどちらかである!!」

と、最期まで戦い抜くことを誓ったわけです。
ここで劉備軍に降ったら、「口だけの不忠者」との汚名を受けることになりますからね。それを嫌ったわけです。

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ぱんださん

2017/10/2512:22:26

質問の要旨がぼんやりしていて、何を聞きたいのかよくわかりません。
二度も君主を裏切ったらそれこそ武士のメンツに関わる的なことを龐徳が言っていたように思いますが…。

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pkl********さん

2017/10/2510:54:23

もういっぺん通しで読んでみたらどうかな。

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