ここから本文です

日本史 歴史 孝謙天皇 称徳天皇は道鏡に天皇になってほしかったのですか?

sar********さん

2017/11/116:07:58

日本史 歴史

孝謙天皇 称徳天皇は道鏡に天皇になってほしかったのですか?

閲覧数:
102
回答数:
2

違反報告

ベストアンサーに選ばれた回答

ban********さん

2017/11/116:45:07

女帝が強く望んだのであって、道鏡にしては、正直、迷惑だったかもしれません。

聖武天皇の子のうち、藤原氏の母(光明皇后)が産んだ男女のうち、男(基王)が早世したため、娘の安倍内親王が、女性の身で皇位につけられます。女性天皇は「元皇后の未亡人」か「生涯独身」のどちらかと決まっています。親戚一同の都合を押し付けられて「おまえは一生結婚できない」といわれた女性の気持ちを、わたしは想像するほかありませんが、ともあれ、女帝は、自分を傀儡にして権力を維持しようとする母(光明皇后)と、その実家・藤原一族のやり口に、ホトホト嫌気がさしていました。一旦は、母の(光明皇后)のお気に入り・藤原仲麻呂の庇護する親戚の男子に皇位を譲らされますが(淳仁天皇)、うっとおしい母が死ぬや、皇位を奪い返し(このあとが称徳天皇)、仲麻呂を討伐して、滅ぼしてしまいます。
しかし、女帝の宿命で夫も子供もいませんから、いずれまた、誰かを指名して皇位を譲らなければなりません。
「どうせ皇位を譲るなら、次こそは藤原氏の操り人形になるしかないような軟弱な親戚ではなく、ホンモノの人格者に天皇になって欲しい」。ある意味理想主義者、別の言い方をすれば潔癖症の女性だった、というのは確かでしょう。
そこで称徳女帝は道鏡に「白羽の矢を立てた」のです。
称徳はこのころ、自らを「天皇」ではなく「皇帝」と称することが多くなります。「天皇」はアマテラスの子孫しかなれませんが、中国流の「皇帝」であれば「徳さえあれば誰でもなれる」からです。概念的には、ですよ。概念から入る、というのが「この種の女性」の特徴なのも確かでしょう。
「皇帝」と称したのは、血縁のないものに皇位を「禅譲」したいと考えている証拠です。天武天皇の子孫の男子はたくさんいたものの、みんな藤原氏と血が繋がっており、藤原の息のかかっていない者はいません。それじゃあダメだ、藤原に操られない人物に位を譲らなきゃダメだ、と称徳女帝は考えていたのです。
結果として、藤原勢力の猛反発にあって道鏡は排除されます。歴史は、勝者である藤原氏によって書かれます。自分たちの身内のはずの女帝が、自分たちを嫌って排除しようとした、とは書けません。そこで「あの道鏡が、女帝を誘惑したから、こういうことになったんだ」と・・・。
道鏡と称徳に男女関係があったかのように言うのは、もちろんデマです。「下半身スキャンダル」をでっちあげるのは、勝者の常套手段です。男が書き男が読む歴史では、「女は愚か」という話のほうが俗受けします。「女なんか、どうせ色恋沙汰のことばっかり考えてるんだ、女が政治をするとロクなことにならないんだよ」という話をしておけば、読者は満足して、それ以上の「権力者の悪事、権力抗争の暗部」に目を向けなくなってしまうのです。そんなものです。

この「スキャンダル」を積極的に利用したのが桓武天皇です。平安京への遷都は、天武系から天智系への政権交代、「革命」です。その正当性をより強固にするために、「あんな汚らわしい、不徳の行為を行っていた天武の子孫たちは、滅んで当然、クリーンな天智系に皇位が戻るのは天の意思だ」「あんな穢れた坊主どもがいる平城京は捨てて、新しい理想の都で新しい政治をやるんだ」と、称徳と道鏡の悪口は繰り返しかかれ、語り伝えられているのです。もちろん桓武のバックには、天武系の天皇家をアッサリ見限り、口をぬぐって桓武に乗り換えた藤原一族がついています。

ベストアンサー以外の回答

1〜1件/1件中

fea********さん

2017/11/116:40:52

なってほしかったと言うより、
道教から、なりたいとせまられた。

あわせて知りたい

この質問につけられたタグ

みんなで作る知恵袋 悩みや疑問、なんでも気軽にきいちゃおう!

Q&Aをキーワードで検索:

Yahoo! JAPANは、回答に記載された内容の信ぴょう性、正確性を保証しておりません。
お客様自身の責任と判断で、ご利用ください。
本文はここまでです このページの先頭へ

「追加する」ボタンを押してください。

閉じる

※知恵コレクションに追加された質問は選択されたID/ニックネームのMy知恵袋で確認できます。

不適切な投稿でないことを報告しました。

閉じる