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私は大阪府在住ですが、言わゆる「先祖代々の実家的な実家」は、隣の和歌山県にあ...

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shj********さん

2017/11/1517:04:30

私は大阪府在住ですが、言わゆる「先祖代々の実家的な実家」は、隣の和歌山県にあるので、一応「和歌山県出身」です。

私は、「専門家では無いが、学校の科目としての社会科、それも高校でな

ら、日本史は一応分かる」人間と、言う事なので、約10年前の盆明け、和歌山県和歌山市に住む、母親側の伯母さん(母親の姉さん)宅に行ったら、近況報告メインで、世間話し始めました。
すると、世間話が進んで、「和歌山市内に、関係する歴史を、主なテーマにした」内容と、なりました。

伯母さんからは、「市内には、雑賀崎と言う地域あって、その雑賀崎が関係箇所と言う、歴史上の関係者が、確か最低で戦国時代前後であれば関係していて、更にその関係者の関係者が、余りにも有名な歴史上の人物と思うけれど、 お前は高校迄の学生時代なら、社会科は得意と聞いたが、知らんか?」的な内容で、質問を受けました。

私は、戦国時代については「織田信長や今川義元等、歴史上の余りにも有名な武将なり、桶狭間の戦いと言った、余りにも有名な戦しか、分からない」人間ですが、「詳しく無いが、和歌山市の雑賀崎は、歴史上の関係箇所」程度は、聞いた事あります。
なので、「伯母さん、俺は学校の社会科は得意やけど、戦国時代は詳しく無いんやが、雑賀崎の地域なら確かに、戦国時代前後であれば、歴史上の関係箇所やと言うのは、聞いた事あるわ」的な内容で、私は 伯母さんへ、返事しました。


そこで、質問したいのは…?

「最低で、戦国時代前後と思うが、和歌山県和歌山市の雑賀崎が、関係箇所である、歴史上の関係者は何であるか?
又、その歴史上の関係者の関係者は、余りにも有名な歴史上の人物と思うが、居れば余りにも多いので1人だけで良いが、誰が居るか?」に、なります。

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hir********さん

2017/11/1608:54:27

鈴木孫一

鈴木 孫一は、雑賀衆、雑賀党鈴木氏の棟梁や有力者が代々継承する名前。雑賀孫一という名でも知られる。表記ゆれとして「孫市」の名も知られる。

経歴

石山合戦において雑賀衆を率いて石山本願寺へ入り、織田信長の軍勢を苦しめた。その後、豊臣秀吉に鉄砲大将として仕え、関ヶ原の戦い(伏見城の戦い)では西軍本隊に属して、鳥居元忠を討ち取る活躍を見せる。戦後、浪人を経て水戸藩に仕官した。

石山合戦期の「鈴木孫一」については、自署に「重秀」とある史料が残されており、鈴木孫一の正体は鈴木重秀という武将である。ただし豊臣秀吉に仕え、伏見城の戦いで活躍した「鈴木孫一」は一般的には重秀の事ではなくその名跡を継いだ人物であり、後に水戸藩に仕官した鈴木重朝の事であるとされている。その他、想像・創作の域こそ出ないものの、重秀の父とされる鈴木佐大夫を始め、当時存在したとされる鈴木氏の武将たちもまた「鈴木孫一」を名乗ったのではないかと言われる。

なお、「雑賀孫市」という呼称を公的に用いたのは鈴木重次(重朝の次男)である。最初は父と同じく「鈴木孫三郎」と名乗っていたが後に改名、この名が代々子孫に受け継がれることとなった。

また鈴木重秀については、「サイカノ孫一」(『言継卿記』)、「さいかの孫市」(「真鍋真入斎書付」)として史料に出てくることもあるが、これは「尾張の信長」等の類例の他称と考えられ、本人の自著でも書状の宛所でも「雑賀孫市」(雑賀氏)はない。更に言えば、彼の戦友の佐武義昌の覚書や信長・顕如・頼廉の書状など、彼と関係の深かった人間による表記は「鈴木孫一」である。

和歌山県和歌山市平井の蓮乗寺内に孫一の墓と伝わるものがあり、法名は「釋法誓」(墓碑には「天正17年(1589年)5月2日」とある)。三重県熊野市には孫一終焉の地として供養塔がある。こちらの法名は「釋広徳」。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E5%AD%AB%E4%B8%80





紀州征伐

紀州征伐または紀州攻めとは、戦国時代(安土桃山時代)における織田信長と羽柴秀吉による紀伊への侵攻のことである。一般的には天正5年(1577年)の信長による雑賀攻め、同13年(1585年)の秀吉による紀伊攻略を指すが、ここでは天正9年(1581年)から同10年(1582年)にわたる信長の高野攻めも取り上げる。

信長・秀吉にとって、紀伊での戦いは単に一地域を制圧することにとどまらなかった。紀伊は寺社勢力や惣国一揆といった、天下人を頂点とする中央集権思想に真っ向から対立する勢力の蟠踞する地だったからである。根来・雑賀の鉄砲もさることながら、一揆や寺社の体現する思想そのものが天下人への脅威だったのである。

信長の紀州攻め

雑賀侵攻

元亀元年(1570年)に始まった石山合戦は本願寺優勢のうちに進み、織田信長は石山本願寺を攻めあぐねていた。信長は戦局を打開すべく、本願寺の主力となっていた雑賀衆の本拠である紀伊雑賀(現和歌山市を中心とする紀ノ川河口域)に狙いをつける。兵員・物資の補給拠点である雑賀を攻略すれば、大坂の本願寺勢の根を枯らすことができると考えたのである。天正4年(1576年)5月頃から織田方の切り崩し工作が始まり、翌5年(1577年)2月までに雑賀五組のうち社家郷(宮郷)・中郷・南郷のいわゆる雑賀三組を寝返らせることに成功する。

開戦から「降伏」まで

同年2月2日、以前から織田方に加勢していた根来衆に加えて雑賀三組(三緘)の協力も得られることになったため、信長は雑賀の残り二組、雑賀荘・十ヶ郷を攻略すべく大動員をかけた。信長は9日に安土を発して上洛。膝下の近江の兵に加えて嫡男織田信忠率いる尾張・美濃の軍勢、北畠信雄・神戸信孝・織田信包配下の伊勢の軍勢、さらに畿内と越前・若狭・丹後・丹波・播磨の兵も合流して13日に京都を出発した。16日には和泉に入り、翌17日に雑賀衆の前衛拠点がある貝塚を攻撃したが、守備兵は前夜のうちに海路紀伊へ退却していたので空振りに終わった。同日根来衆と合流して18日に佐野、22日には志立(信達・現泉南市)に本陣を移した。

織田勢は山手と浜手の二手にそれぞれ30,000人の兵を投入して侵攻を開始した。その陣容は、山手に根来衆と雑賀三組を先導役として佐久間信盛・羽柴秀吉・堀秀政・荒木村重・別所長治・同重宗、浜手は滝川一益・明智光秀・長岡藤孝・丹羽長秀・筒井順慶・大和衆に加えて織田信忠・北畠信雄・神戸信孝・織田信包である。

浜手の織田勢は淡輪(現岬町)から三手に分かれて孝子峠を越え、雑賀側の防衛線を突破して南下し、中野城を包囲した。2月28日に信長は淡輪に本陣を進め、同日中野城は織田方の誘降工作に応じて開城した。3月1日、織田勢は平井の鈴木孫一の居館(現和歌山市)を攻撃した。

山手の織田勢は信達から風吹峠を越えて根来に進み、紀ノ川を渡って東側から雑賀に迫った。これに対し雑賀衆は雑賀城を本城となし、雑賀川(和歌川)沿いに弥勒寺山城を中心として北に東禅寺山城・上下砦・宇須山砦・中津城、南に甲崎砦・玉津島砦・布引浜の砦を築き、川岸には柵を設けて防衛線を構築した。

日時は特定できないが2月24日以降、山手先鋒の堀秀政勢が雑賀川の渡河を試みた。『紀伊国名所図会・巻之二・雑賀合戦』によれば、雑賀勢はあらかじめ雑賀川の底に逆茂木・桶・壺・槍先を沈めておいて渡河の妨害を図った。織田方が川を渡ろうとすると人馬が足を取られて前進できず、また川を越えた者も湿地帯で動きが鈍っている所に、頭上から25人ずつが二列横隊を組んで間断なく鉄砲で狙い撃ち、さらに弓隊が射立てた。これにより織田方は多大な損害を受けて退却した。

その後、ゲリラ戦に持ち込まれ戦局は膠着状態となったが、鈴木孫一・土橋若大夫・粟村三郎大夫ら7人は連署して誓紙を差し出し、信長が大坂表での事態に配慮を加えることを条件に降伏を誓ったため、3月15日に信長は朱印状を出して赦免した。21日、信長は陣払いして京都へ引き揚げた。

だが、足利義昭や毛利輝元は「織田方は敗北した」と喧伝した。

信長は引き揚げるに当たり、雑賀衆の再起に備えて佐野砦(現泉佐野市)を築かせ、完成後は織田信張を駐留させた。

だが、半年もしないうちに雑賀衆は再び挙兵し、信長と戦うことになる。

再起と近隣への報復

同年7月、雑賀荘・十ヶ郷の諸士を中心とする雑賀衆が兵を動かし、先に信長に与した三組の衆への報復を始めた。8月16日、井ノ松原(現海南市)において鈴木孫一らの雑賀衆は日高郡の国人・地侍の応援を得て南郷の土豪稲井秀次・岡本弥助らと戦い、これを撃破した。同時期に信長は佐久間信盛父子を大将に70,000 - 80,000人の軍勢を動員して再び雑賀を攻めたが、この時も制圧に失敗した。

翌天正6年(1578年)5月、雑賀荘・十ヶ郷に中郷・南郷の兵も加わって宮郷の太田城を1か月にわたり包囲攻撃(第一次太田城の戦い)したが、落城には至らなかった。宮郷はその後、本願寺に謝罪して赦免を受けている。

石山開城後

天正8年(1580年)に本願寺が織田信長と和睦してから、雑賀では次第に鈴木孫一と土橋若大夫が対立するようになった。
天正10年(1582年)1月23日、鈴木孫一は土橋若大夫を暗殺した。孫一は事前に信長に連絡して内諾を受けており、織田信張とその配下の和泉衆・根来衆の応援を得て土橋氏の粟村(現和歌山市)の居館を攻めた。土橋派は若大夫の遺児5人を立てて抗戦したが、2月8日には土橋平次・平尉(平丞)兄弟は逃亡、根来寺泉識坊は討ち取られるなど雑賀の内紛は孫一の勝利で決着した。信長の後ろ盾を得た孫一主導の下、雑賀衆は織田信孝の四国攻めに船百艘を提供するなど、織田氏との関係を強めていく。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E5%B7%9E%E5%BE%81%E4%BC%90

秀吉の紀州攻め

根来寺は室町時代においては幕府の保護を背景に紀伊・和泉に八か所の荘園を領有し、経済力・武力の両面において強力であった。戦国時代に入ると紀北から河内・和泉南部に至る勢力圏を保持し、寺院城郭を構えてその実力は最盛期を迎えていた。天正3年(1575年)頃の寺内には少なくとも450以上の坊院があり、僧侶など5,000人以上が居住していたとみられる。また根来衆と通称される強力な僧兵武力を擁し、大量の鉄砲を装備していた。根来寺は信長に対しては一貫して協力しており友好を保っていたが、羽柴秀吉と徳川家康・織田信雄の戦いにおいて留守の岸和田城を襲うなどしたほか、大坂への侵攻の動きも見せていたため、秀吉に強く警戒されており、秀吉側は根来寺を攻略する機会を伺っていた。

本能寺の変は雑賀衆内部の力関係も一変させた。天正10年6月3日朝に堺経由で情報がもたらされると、親織田派として幅を利かせていた鈴木孫一はその夜のうちに雑賀から逃亡し、4日早朝には反織田派が蜂起して孫一の館に放火し、さらに残る孫一の与党を攻撃した。

以後雑賀は旧反織田派の土橋氏らによって主導されることとなった。土橋氏は根来寺に泉識坊を建立して一族を送り込んでいた縁もあり、根来寺との協力関係を強めた。また織田氏との戦いでは敵対した宮郷などとも関係を修復し、それまで領土の境界線などをめぐり関係の際どかった根来・雑賀の協力関係が生まれた。

  • hir********さん

    2017/11/1608:59:26

    千石堀城

    千石堀城は、大阪府貝塚市橋本にあった日本の城(山城)。

    概要

    橋本の東南1.5kmに、東側には近木川、西側には見出川に挟まれた、南北約2kmにわたる三ノ丞山と呼ばれる標高約70mの丘陵一帯が、千石堀城の跡と思われている。千石堀城は、積善寺城を主城とした近隣の高井城と同様支城のひとつであったと見られている。小栗街道から分岐し大熊街道の拠点であり交通の要地であった。岸和田城と対峙した時の要害のひとつが千石堀城である。

    沿革

    石山合戦で石山本願寺と織田信長が戦った後、本願寺衆は根来衆、雑賀衆と強く連携し、根来寺の支城として和泉国に5か所もしくは7か所の築いたと言われており、千石堀城もその一つである。築城年に関しては不明な点が多いが、1577年(天正5年)信長の紀州攻めの時に根来衆は城を捨てて撤退するが、それより更に強化され現在の千石堀城が築城されたと思われている。


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質問した人からのコメント

2017/11/21 15:39:54

勉強になりました。
「牛丼やカツ丼状態で、ボリュームたっぷりで、より詳しい回答なので、BAにしたい」と、思います。
又、質問した時は、よろしくお願い致します…。

ベストアンサー以外の回答

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rui********さん

2017/11/1518:16:39

鈴木孫市。

通称は雑賀孫市。

複数いて、関係については諸説ある。

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2017/11/1517:42:24

雑賀の鉄砲集団のことでしょう。雑賀衆と呼ばれ、鉄砲の技術に優れた傭兵集団です。織田信長を負傷させるなどもありました。その代表格が雑賀孫市こと、鈴木佐太夫や、鈴木重秀です。他にも岡吉正など優れた者がいます。

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tak********さん

2017/11/1517:28:35

雑賀衆の棟梁 雑賀孫市(鈴木孫一)当たりになってくるのでは?

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