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戦国武将北条氏の城について質問です。

tan********さん

2017/11/2614:52:29

戦国武将北条氏の城について質問です。

北条早雲こと伊勢宗瑞は本拠地を伊豆半島の韮山城や駿河東端の興国寺城においていましたが、息子の氏綱の代から相模の小田原城と定めたのは、そこから武蔵、上総、下総、上野へと勢力圏を広げるためであり、関東へ進軍する度に伊豆の山中から出て、箱根峠を越えるのは効率が悪いからでしょうか?そう考えた場合、伊豆方面の今川への抑えは考慮していなかったのでしょうか?

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oda********さん

2017/11/2619:45:12

小田原城を拠点は 家督相続後であり1519年くらいといわれています。 今川氏とはこの時 同盟関係(主従関係)であります。
小田原城を拠点据え 城の改修を行い 相模の寺社の建立や修復・ 相模領内の検地や印判状発給による統治・ 朝廷から北条氏改姓の認可が受理される等の動きが 見られることから 狙い的には 執権北条氏の威厳を継承または 正当性を主張しながら 早雲公 悲願の東国武家社会擁立や関東争乱の火種を作った両上杉氏に対するものの足掛りと考えます。

早雲公のその意思を引き継ぐ形と考えますので そもそも拠点は 小田原城にすることが 前提と考え 寺社建立や 里見氏の奇襲により焼失してしまった鶴岡八幡宮再建や 鶴岡八幡宮に近い玉縄城を重要な城とするのも あくまで執権北条氏の威厳と後北条氏の正当性のために必須条件であります
後に 支城により相模を強化する防衛ラインも 北条氏にとり相模が主軸であることを裏付けていると考えます。

もともと北条氏は 伊豆から小田原拠点を変え 関東統治を足掛りにする 姿勢があったのが本件の回答です。

捕捉ですが 伊豆方面や駿東は 脅威となる敵がこの当時目立っていません 今川氏との同盟関係があったからです この場合 強いていうならば津久井衆に対する 扇谷上杉氏との関係で信虎の攻撃がたびたびあったくらいです

花倉の乱後 今川義元公が武田信虎公と同盟を結ぶと 氏綱公は今川氏との同盟破棄により 箱根峠より 利便では都合の良い また対武田氏対策として足柄峠・街道を結ぶ かつて要害堅固といわれた河村城に目を向けます。 これが後に 三国同盟締結後 今川氏の急速な衰えと武田氏との同盟関係破談により 足柄城の築城・丹沢から侵入する武田氏の警戒のために砦を築き・河村城修復・山中城の改修になります。 それまでは 西の脅威は あまり考えていないことも 余談で-w-w

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sas********さん

2017/11/2616:38:58

甲駿同盟が成立して河東の乱が起きるまで形式的には今川と主従関係なので小田原を本城と定めたのはその前です。

joy********さん

2017/11/2614:59:34

今川とは同盟関係。

hee********さん

2017/11/2614:58:23

北条早雲と今川氏は、親戚だった。
早雲の妹は、今川氏7代目氏親の母親だった。

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