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「前右大将頼朝、前大将の号を改め、大将軍を仰せらるべきの由を申す」 と大将...

usai21さん

2017/12/2518:40:06

「前右大将頼朝、前大将の号を改め、大将軍を仰せらるべきの由を申す」

と大将軍の号を望んだ源頼朝ですが、なぜ「大将軍」を欲していたのでしょうか?

川合康氏の論によると
「「将軍」

頼義の権威を継承し,かつ鎮守府将軍であった奥州藤原氏を超える地位として,御家人に誇示する目的」
であったとされますが、この見立てが一般的なのでしょうか。

少し疑問なのは『三槐記』によれば源頼朝が大将軍号を要求したのは建久三年(お馴染みの1192年)なわけです。
もうとっくに奥州藤原氏は滅ぼしており、鎌倉殿と御家人の主従関係もおおよそ固まっている時期にわざわざ上記の理由を持ち出して大将軍号を必要とするでしょうか?

右大将で十分武官の最高位であり、鎮守府将軍などというちんけな武官職をはるかに凌駕しています。
(あえてちんけなと書きましたが、貴族社会の常識から言えば鎮守府将軍に就く家格と右大将に就ける家格では天地の開きがあるのでこういった表現にしました)

前右大将大納言ではどうしてダメだったのでしょうか。

少し変化球に過ぎるかも知れませんが、私見としては「大将軍」が必要な理由は、大姫や三幡姫を入内させるために必要としたのではないかと考えます。

異朝の例を遡れば、漢代では霍光のように「大将軍」は皇帝外戚かつ朝議の主宰者の代表的な官職だったわけです。

娘を皇后(あるいは中宮)に立てようとするならば、皇族か摂関家、清華家である必要がありますが、そのいずれでもない源頼朝はあらたな清華家相当の資格として大将軍を求めたのではないでしょうか。

そして漢の大将軍の如く天皇家の外戚として公武に君臨しようと考えたのではと思います。

もちろん摂家、清華家云々と関係なく徳子を入内させた平家の例もありますが、驕臣であると謗りを受けないように体裁作りに注力したとは見られないでしょうか。

また、平家の場合は平清盛が白河院の落胤だという風聞が徳子入内や太政大臣就任のハードルを低くしたと考えていますが、そのようなバックボーンのない源頼朝は別な拠りどころを必要としたと考えます。

補足三槐記は山槐記の誤りです。

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knz********さん

2017/12/2520:22:12

櫻井陽子「頼朝征夷大将軍任官をめぐって」『明月記研究』第9号2004年12月(『『平家物語』本文考』2013年2月汲古書院)

国立公文書館蔵『三槐荒抜書要』の翻刻と分析により、櫻井氏は、従来頼朝の要求により征夷大将軍に補任されたとする通説に対して、頼朝が要求したのが「大将軍」号であり、いくつかある候補から「征夷大将軍」号を選択したのが朝廷であり、これにより征夷大将軍に頼朝は補任されたことを実証しました。本論文により通説は破棄されて、櫻井氏の説が学界に受けいられ、新たな通説となりました。ただ、櫻井氏はなぜ頼朝が「大将軍」号を欲したかの理由には言及がありません。

そこで、川合康氏は、「「将軍」頼義の権威を継承し,かつ鎮守府将軍であった奥州藤原氏を超える地位として,御家人に誇示する目的」とされたわけです。

さて、「将軍」号、すなわち鎮守府将軍は、秀郷流藤原氏や桓武平氏国香流等の武士がたびたび任じられて、とりわけ頼朝期の鎌倉御家人ナンバースリーの小山一族にとって光栄あるものでした。しかも、平家により奥州藤原氏の秀衡も任じられています。確かに、頼朝の祖先の頼義も任じられています。ただの「将軍」号ではこれらの先例を越えることはできません。奥州藤原氏を滅亡させ全国に覇権して武家の棟梁たりえた頼朝にとって「大将軍」号はこれを越えてふさわしいものです。川合氏は秀衡のみを対象としていますが、より広く御家人全体の先祖先例をも越えるものとして、武家の棟梁たる頼朝が隔絶した地位にあることを示すのが「大将軍」号といえます。ただ、そうであれば、朝廷の親衛軍長官である右近衛大将なら、朝廷の麾下にいることを示し、頼朝は朝廷(「治天の君」後白河法皇)に忠実な武臣であることを示すことができるので、建久元年の上洛時に頼朝を権大納言兼右近衛大将に補任したのは当然といえます。
しかし、「大将軍」号は中国の先例からいって、閫外の権があり、朝廷への独断専行権を保証するものになります。いわば、朝廷とは別の権能を行使し得ることになります。とするなら、朝廷にとってこのような毒を持った官に平時に補任することを後白河法皇が認めることは困難と考えます。法皇は建久3年3月13日に崩御します。中山忠親が「大将軍」号に関して関白九条兼実から諮問されるのは7月9日で、報答するのが12日です。当然ながら、頼朝の「大将軍」号要求はそれ以前ですが、このよう急便とそれへの朝廷の対処は最速になされたでしょうから、遅くとも7月初頭に頼朝の使は発せられたとすべきで、もう少し前としても6月下旬には発せられたものでしょう。とすれば、法皇の崩御を見て、最大の障害がとれ、さらに朝廷全体の状況を見極めた上で、頼朝はこの要求を発したとすべきでしょう。

なお、頼朝は権大納言兼右近衛大将となったことで、いわゆる清華家に準ずる家格になっているとすべきです。たとえこの時点で大姫の入内を考えていたとしても、その官で十分で特に大将軍を欲する必要はありません。

  • 質問者

    usai21さん

    2017/12/2608:45:25

    ご回答ありがとうございます。

    >朝廷とは別の権能を行使し得ることになります。とするなら、朝廷にとってこのような毒を持った官に平時に補任することを後白河法皇が認めることは困難と考えます。

    これは本当にそう言い切れるのでしょうか?
    まず、大将軍に閫外の権があるとのことですが、では実際に源頼朝が大将軍として閫外の権の発動したことはあるのでしょうか。

    鎌倉幕府の長「鎌倉殿」の権能は征夷大将軍によってのみ立つわけではありませんよね。
    あくまで、家政機関をベースにして寿永二年十月宣旨や文治の勅許など、それこそ後白河法皇が許認した様々な公権を張り合わせて出来ている権能です。

    予め征夷大将軍にすべてが集約されていて後白河法皇がそれを認めなかったかのような評価は史観の逆行ではないでしょうか?

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qqm********さん

2017/12/2518:56:35

天下の大天狗、後白河法皇の術中にはまらないようにしたのですよ。
後白河法皇は、平清盛も手玉に取り、頼朝も弟義経もたぶらかしたのです。
まず、そんな後白河法皇は信用できないですし、距離を置かないと、いつ、配下の武将を丸め込まれて、頼朝の政権が転覆するかもわかりません。
なので、都に常駐すると危険です。
朝廷での出世だけを考えた結果が平家ですよ。
なので、関東にどっかと構えて、朝廷とは距離置くことを考えたのです。
右大将は、都に常駐して朝廷を守らなくてはなりません。
そんなことに駆り出されたら、平家の二の舞ですよ。
すると、関東にいても良い官職は、征夷代将軍になります。
特に成敗する賊がいなくても、その役職が関東に常駐する口実にはもってこいです。
頭が良い後白法王は、その策の裏まで見通していて、容易に征夷大将軍のくらいは認めませんでした。なので、後白河法皇が亡くなってからやっと念願かなったのですよ。

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