ここから本文です

卑弥呼の墓の候補地として、奈良県の「箸墓古墳」が有名です。 作られた時期、場...

pre********さん

2017/12/2721:58:33

卑弥呼の墓の候補地として、奈良県の「箸墓古墳」が有名です。
作られた時期、場所、大きさ、形状、伝説などの面から、かなり条件に適合しています。
しかし、当然、これは、邪馬台国畿内説が前提となります。

これに対し、九州説では、卑弥呼の墓は、どこだと推定されているのでしょうか。
有力な候補地はありますか。

閲覧数:
435
回答数:
8
お礼:
25枚

違反報告

ベストアンサーに選ばれた回答

kuw********さん

2017/12/2921:03:05

▼卑弥呼の規模について

魏志倭人伝には「卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩」とありますが魏晋時代の「歩」は144cm程度と考えられますから「百餘歩」は144m余りとなります。

この大きさに該当する墳墓は九州には存在しません。


「箸墓」は全長270m以上なので3世紀当時では、ただ一つ該当する古墳です。

ただ、これには「徑」は直径なので「円墳」であって「前方後円墳」である「箸墓」は違うという意見もあります。

しかし、江戸時代には「箸墓」を「円形の丘」と書いたり描いたたりしている書物があります。

▼天明五年(1785年)「日本書紀」の注釈書である河村秀根の「書紀集解」

(原文)
「嘗至于大和国、経柳本村、過箸中村。道右有円形之丘。相伝曰箸墓。無長樹、荊楚成林耳」

(現代語訳)
「かつて大和へ行き、柳本村から箸中村を通った。道の右に円形の丘があり、箸墓という伝承がある。大きな樹木はなく、茨の類が茂っているだけである」

▼寛政三年(1791年)序「大和名所図会」

五段に築成されている円墳状の墳丘として描かれている。(下図)



現在の「箸墓」は、明治20年に植林をされたために実際より10m高くみえる。

したがって樹木が生い茂っている現在の姿より江戸時代中期の姿のほうが3世紀当時の姿に近く、河村秀根や「図会」の絵描きが認識したように魏の使者も認識した可能性が高い。


だとすれば、箸墓の円墳部は全長150mと魏志倭人伝の記述と一致する。

▼「箸墓」の築造時期について

国立歴史民俗博物館の春成秀爾らの研究グループは「箸墓」の最下層から出土した土器から採取した炭化物を炭素14年代法で測定した結果、卑弥呼が亡くなった247年に該当する240~260年と発表しました。

〇国立歴史民俗博物館研究報告 第163 集 2011 年3 月
「古墳出現期の炭素14年代測定」

「古墳開始期にかかわる桜井市纏向遺跡群出土試料などの炭素14 年代測定を系統的に実施した。測定結果は日本産樹木年輪の炭素14 年代測定に基づいて較正し,土器型式および出土状況からみた遺構との関係による先後関係から,箸墓古墳の周壕の「築造直後」の年代を,西暦240~260 年と判断した。」


炭素14年代法の測定精度について「数十年単位で誤差」というデマを流す人がいるのですが

炭素14年代代法の研究を行っている名古屋大学院環境学研究科の北川浩之氏は

「炭素14 年代法による高精度年代決定と編年モデル構築」のなかで

「現状では,炭素14 年代測定の測定精度の限界は±0.2 % 程度である」

と書いている。

さらに朝日新聞2009年8月6日の報道では、

「歴博の今村峯雄名誉教授(年代科学)は「誤差が±3年という精度で年代を得る見通しがたってきた」と語る。」

と書かれている。

「誤差が±3年という精度」ならば年代の特定には有効であり大塚初重氏(明治大学名誉教授)によると250年代まで絞り込めているということである。

→「邪馬台国をとらえなおす (講談社現代新書) より」


すなわち、箸墓は魏の使者は「箸墓」を円形の墳墓と誤認をして報告して「徑百餘歩」と報告したならば、「箸墓」の規模と合致して当時の日本では、この古墳以外はありえない。

同時に炭素14年代法で測定すると誤差プラスマイナス3年という高い精度で250年代に築造された可能性高く、卑弥呼の死去した時期と合致する。



つまり「箸墓」以外には「卑弥呼の墓」は考えにくい。


※寛政三年(1791年)序「大和名所図会」より「箸墓」の図

▼卑弥呼の規模について

魏志倭人伝には「卑弥呼以死 大作冢...

  • kuw********さん

    2017/12/2921:17:21

    平原遺跡の規模は1号墳で「14メートル×12メートル」ですから

    「徑百餘歩」

    とは、全く一致しません。


    「伊都国通信 vol.3 1998.10.21発行
    (発行:前原市教育委員会) 「平原遺跡発掘調査中間報告」よると

    1号墳以外にも2号墓の存在が確認された。

    2号墓は円形ないし隅丸方形と考えられ、周囲に溝が巡らされていて1号墳と接するようにして造られており、さらに周溝の一部を共有していることから造られた年代が近いと考えられている。

    ここで重要なのは2号墓に副葬されているのは「前漢鏡」だけだということ。

    通常、副葬するのは死者が生前に使用していたものなので「前漢鏡」しか存在しないということは埋葬された人物は「前漢時代」に死去した可能性が高い。


    前漢は8年まで、後漢は25年なので2号墳と近い時期に築造された1号墳は「前漢鏡」と「後漢鏡」が副葬されていたことを考えると1世紀中ごろに墓と思われ、3世紀の卑弥呼とは関係がない。









  • その他の返信を表示

返信を取り消しますが
よろしいですか?

  • 取り消す
  • キャンセル

ベストアンサー以外の回答

1〜5件/7件中

並び替え:回答日時の
新しい順
|古い順

the********さん

編集あり2017/12/2814:45:51

作られた時期の根拠である炭素年代測定というのは、大まかな新旧であれば割り出せますが、数十年単位で誤差が生じうるので、さほど有力なデータではありません。むしろ、卑弥呼が没した時代より後代の可能性が高いともされています。

大きさや形状は確かに近いといえますが、場所的には九州説からすれば大きく異なります。

伝説についても、唯一の確実な資料といっていい『魏志倭人伝』の記述からすれば、やはり邪馬台国は九州にあったと考えられるので、合致していません。
いくつかピックアップしてみますが、

・魏志倭人伝から読み取れる埋葬方法と違う(箸墓古墳は竪穴式石室とされている)。
・魏志倭人伝によると、女王国(邪馬台国)から東の海を千余里渡ると、再び倭人の国があるとされているが、畿内(本州)から見て東にそのような国は無い。九州であれば、本州や四国が考えられる。
・当時、本州は半島の可能性もあり、倭国が島国であると魏志倭人伝で断言されている以上、倭国は九州か四国にあったと考えられる。
さらに、九州は魏志倭人伝に記述のある国土の規模(外周五千余里)とほぼ一致する。
・魏志倭人伝に登場する倭国の国々で、所在地が特定されている国々の全てが九州内である。
九州ばかり記述しておいて、畿内までにあるはずの国々の記述が抜け落ちているのは不自然。

等が根拠となるでしょう。

なお、九州説を採用しても様々な場所が挙げられますが、魏志倭人伝を素直に読むと、伊都国(福岡県糸島市や福岡市西区付近)の南ということになります。
そのあたりでは、大量の副葬品が出土していて、かつ被葬者が女性とされている、平原遺跡あたりが有力でしょうか。
しかし、邪馬台国が正確にどこからどこまでであった、ということは魏志倭人伝から読み取るのは難しいので、更なる考古学的成果を待たなければなりません。

返信を取り消しますが
よろしいですか?

  • 取り消す
  • キャンセル

z_x********さん

2017/12/2808:51:17

せいぜい平原古墳ですかね。
個人的には宇佐神宮だと思ってます。

魏志倭人伝の記述は信用できる部分とできない部分がありますね。
文化風習に関しては直接見聞きしたのを書いてるようで、
とても興味深く傾聴にあたいする話しが多いんですが、
政治的・地理的なところはぼやけ過ぎです。
おそらく倭人の都合で吹き込まれたことを
そのまま羅列しただけのように感じます。

地理や国勢は国土防衛の機密事項ですから、
おそらく倭人が適当にはぐらかして言った内容です。
さらに日本書紀で藤原氏による歴史隠蔽(焚書と捏造)が徹底された。
だから邪馬台国も卑弥呼もわからなくなった。

そう考えると卑弥呼の墓だとすぐに思うところは、逆に違うかもね。

返信を取り消しますが
よろしいですか?

  • 取り消す
  • キャンセル

knn********さん

2017/12/2806:45:21

魏志倭人伝の記事を満足させて邪馬台国を確定することは不可能だと断言できます。
邪馬台国を推定するには妄想を働かせるしかありません。邪馬台国論争が決着していないのは、既存の九州説・畿内説などに妄想が含まれているからです。(「妄想」を「想像」又は「推測」に変えても構いません)

さて、
魏志倭人伝には、邪馬壱国が1回、女王国が5回記されています。5回の女王国は女王の都とする場合と女王の統治範囲とする場合とが混在しています。また、女王国=邪馬壱国とは記されていません。
女王国は伊都国で、邪馬台国や邪馬壱国が存在する必然性は無いと考えています。

それでは、妄想を働かせてみましょう。
朝鮮半島では魏が公孫氏を滅ぼし帯方郡まで占領し更に韓への支配を強めていたのですから、倭人には魏の軍事力に対する脅威があったのです。倭人には女王国の場所を秘密にする理由があるのです。つまり倭人達(難升米等)は女王国の場所を秘密にした。
倭人達(難升米等)は女王国を海の彼方にすることで魏の使者を欺いているのです。其の余の傍国や国々の戸数二万余・五万余・七万余は倭国が大国で大率(大きな軍隊)が存在していると思わせているのです。魏の使者も倭人伝の編者陳寿もこの倭人の策略に気づいていないのです。倭人は孫子の兵法「詭道」を実践しているのです。

伊都国までの道程記事は魏略にも書かれていて魏の使者の「見分」ですが、奴国~邪馬壱国~其の余の傍国の記述は倭人からの「見聞」で魏略には書かれていません。奴国・不弥国・投馬国・邪馬壱国の記述は倭人伝から削除できると考えます。
伊都国の記事として倭人伝には「世有王皆統属女王国」魏略には「其国王皆属王女也」と記されています。其の国の王が女王に属しているのなら其の国つまり伊都国に王と女王とが居て女王の宮室があってよいのです。女王の居処とする場所は伊都国しかありません。女王国は伊都国です。
(自由に推理して妄想するのは実に面白い)

http://www.city.itoshima.lg.jp/s033/010/020/010/110/010/hirabaru-is...
↑福岡県糸島市ホームページ<2009年11月1日>に平原遺跡の1号墓について「この墓は弥生時代終末期(約1800年前)に造られたものです」と書かれています。
2009年の1800年前は西暦209年ですが、墓が作られた「約1800年前」の許容差を±50年とすると墓が作られたのは西暦159年~259年になります。魏志倭人伝によると卑弥呼の死は西暦247年頃です。
平原1号墓に葬られた人物は女性と考えられていますので女王卑弥呼の墓かもしれません。伊都国は糸島市あたりに在ったとされています。
↑これには異論もあるでしょうが、
先ず「約1800年前」については、平原1号墓から出土した鏡40面のうち中国製は前漢鏡1枚と後漢鏡1枚です。平原1号墓から出土した大型内行花文鏡は八咫鏡と解されていて伊勢神宮の八咫鏡と同型と解される。日本製の八咫鏡は3~4世紀以降に生産されて埋葬されたと解される。
鏡の問題は面倒です。
大正時代は、古墳から漢鏡が出ると古墳の築造を鏡の年代と同じにしました。その後、梅原末治は鏡の伝世に気づいた。中国から輸入した鏡は貴重品だから100年・200年にもわたって代々その家に伝え子孫によって埋葬される。また、新鋳の鏡が新品で輸入されるとは限りません。中国や朝鮮で伝世したものが日本に移動する場合もあります。
魏志倭人伝には卑弥呼の墓について「径百余歩」「殉葬者奴婢百余人」と記されています。「百」は「多い大きい」の意味で実数ではありません。主観的に大きいと感じれば良いのです。墓の大きさが直径で示されているので円墳であって方墳でも前方後円墳でもありません。方墳ではないと反論するのであれば前方後円墳(箸墓古墳)も否定されます。
(弥生時代の遺跡の年代は約1800年前・約1900年前などと100年毎に区切って考えますので、許容差は±50年になります)

<女王国のその後>
日本書紀で伊都国王の末裔と思われるのは筑紫国造磐井だけです。
3世紀には豪族が支配する文化圏が九州北部と畿内に併存していて、孫子の兵法「詭道」を実践していた女王国(伊都国)は畿内の大和王権のように好戦的ではなく、4世紀には好戦的な大和王権が蝦夷を征討し九州にも支配地域を拡大して熊襲を征討し筑紫にも国造を置き九州を統属したと推察します。

※女王国は伊都国で、邪馬台国が存在する必然性は無いと考えていますので、邪馬台国の位置を論じる既存の邪馬台国九州説とは別物です。最高のスマート妄想説かもしれません。

既存の九州説↓
★安本美典★松本清張★榎一雄★橋本増吉★井上光貞★新井白石★他
既存の畿内説↓
◆寺沢薫◆白石太一郎◆都出比呂志◆大塚初重◆岸本直文◆渡邉義浩

「偉い先生がこういったから正しい」と思う(妄信する)のではなく、
先ずは疑問を持つことです。

邪馬台国畿内説は有り得ません。
↓知恵袋のknnmytsucomの回答(BA)です。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q141729140...

返信を取り消しますが
よろしいですか?

  • 取り消す
  • キャンセル

sss********さん

2017/12/2806:31:46

九州に卑弥呼の墓とされる有力な候補地はありません。

返信を取り消しますが
よろしいですか?

  • 取り消す
  • キャンセル

kan********さん

2017/12/2800:58:04

卑弥呼の時代、九州の古墳は
主に墳丘墓ですので古墳規模の物は
九州北部の卑弥呼の勢力圏とされる地域には
「ほぼ無い」状況ですね。

ちなみに
私は邪馬台国九州派ですが、
箸墓古墳を卑弥呼の墓とするのは
かなりのゴリ押しと思ってます。
これは、
箸墓を邪馬台国畿内説の「証拠」にしたいだけで、
畿内説派は、箸墓が卑弥呼の墓じゃないと
邪馬台国を畿内に持って来れない。
纏向石塚古墳でも年代的に苦しい。
しかも定型化された前方後円墳じゃないので論外。
そんな台所事情があります。

両者、確たる証拠が無いので決着は付かないでしょうが、
先ご回答返信にある
本居宣長の「北九州偽僭説」が一番腑に落ちます。
邪馬台国の場所論争は江戸時代に決着してるように
私は思いますね。

返信を取り消しますが
よろしいですか?

  • 取り消す
  • キャンセル

みんなで作る知恵袋 悩みや疑問、なんでも気軽にきいちゃおう!

Q&Aをキーワードで検索:

Yahoo! JAPANは、回答に記載された内容の信ぴょう性、正確性を保証しておりません。
お客様自身の責任と判断で、ご利用ください。
本文はここまでです このページの先頭へ

「追加する」ボタンを押してください。

閉じる

※知恵コレクションに追加された質問は選択されたID/ニックネームのMy知恵袋で確認できます。

不適切な投稿でないことを報告しました。

閉じる