ここから本文です

世界史、唐代の質問です。

ham********さん

2018/1/1920:08:03

世界史、唐代の質問です。

学校で教わったノートを見返していたところ
科挙官僚ははごく一部登用され九品中正と同じく門閥貴族が多かった
というニュアンスのことが書いてありました。
一方、東京書籍の世界史Bには
官吏の登用は、隋の選挙の法を発展させた科挙によって行い、門閥貴族の政治への介入を抑制した。
と、書いてあります。
ほぼ真逆のことを言っていてどちらを信用すべきかわかりません。

どなたか、唐の官吏登用制度についておしえてください。

閲覧数:
52
回答数:
2
お礼:
25枚

違反報告

ベストアンサーに選ばれた回答

プロフィール画像

カテゴリマスター

ste********さん

2018/1/1920:27:03

>科挙官僚ははごく一部登用され九品中正と同じく門閥貴族が多かった

これは唐の初期の話です。
唐の官僚になるためには二つのルートがありました。
一つは科挙に合格することです。
もう一つは、恩蔭と呼ばれる家柄によって自動的に採用される方法がありました。
こちらは、魏晋南北朝以来の伝統的な貴族(つまり門閥貴族)が、
実力とは関係なしに官僚に就職していきました。

唐の三省のうち門下省が貴族の牙城だと言われたのは、
門下省の官僚の大半が、この貴族出身の官僚で占められていたからです。

https://kotobank.jp/word/%E9%96%80%E4%B8%8B%E7%9C%81-143128#E3.83.9...

それだけ、貴族の力が無視できなかったことを意味しています。
つまり、皇帝といえども門閥貴族に遠慮しながら政治を行っていた
ということでした。

ところが、唐では徐々に貴族系の官僚より、科挙官僚が
活躍するようになっていきました。
その転換期になったのが、則天武后の時代でした。
彼女は自分が権力を手に入れるために、それまで力を持っていた
貴族に対抗するために、新興の科挙官僚をどんどん起用してきました。
この流れは彼女が亡くなった後も続いてきました。
玄宗の治世の初期が開元の治として評価が高い理由の一つは、
則天武后が積極的に起用した科挙官僚(宋璟が代表)が
宰相として活躍したことが重要でした。

https://kotobank.jp/word/%E5%AE%8B%E7%92%9F-89131#E4.B8.96.E7.95.8C...

唐の後半になってくると、科挙官僚がだんだん増加していきました。
門閥貴族の中にも、わざわざ科挙を受験して官僚になる者が現れるほどでした。
しかし、科挙官僚オンリーになったわけではありません。
唐後半の李牛の闘争でライバル関係にあった、
牛僧孺は科挙官僚でしたが、李徳裕は貴族系の官僚でした。

https://kotobank.jp/word/%E7%89%9B%E5%83%A7%E5%AD%BA-52120#E4.B8.96...

唐の門閥貴族が滅亡したのは、黄巣の乱と、その後台頭した
朱全忠が貴族たちを皆殺しにしたためでした。

返信を取り消しますが
よろしいですか?

  • 取り消す
  • キャンセル

質問した人からのコメント

2018/1/19 21:46:45

徐々に登用制度が科挙に移り変わっていった、ということでしょうか。
大変参考になりました。ありがとうございますm(*_ _)m

ベストアンサー以外の回答

1〜1件/1件中

k_t********さん

2018/1/1920:24:22

唐代の科挙はまだ未熟。隋に始まる科挙は、目的としては貴族の抑制だったが、そう上手くはいかなかった。則天武后は積極的に科挙官僚を用いたそうだが。唐代には、「貴族の牙城」門下省が詔勅審査権を掌握し、政治を支配していた。科挙官僚が政治に深く関わってくるのは、唐末五代の戦乱で貴族が没落してから。
宋代に殿試が導入されると、皇帝独裁体制の補佐役として、新興地主層形勢戸の一族が科挙合格者を輩出し、彼らは科挙の勉強、すなわち儒学の勉強を通じて文化的素養も身につけ、士大夫層を形成する。ゆえに宋代以降、官僚は政治の中心であると同時に、経済、文化の中心でもあった。

みんなで作る知恵袋 悩みや疑問、なんでも気軽にきいちゃおう!

Q&Aをキーワードで検索:

Yahoo! JAPANは、回答に記載された内容の信ぴょう性、正確性を保証しておりません。
お客様自身の責任と判断で、ご利用ください。
本文はここまでです このページの先頭へ

「追加する」ボタンを押してください。

閉じる

※知恵コレクションに追加された質問は選択されたID/ニックネームのMy知恵袋で確認できます。

不適切な投稿でないことを報告しました。

閉じる