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評伝アントニオ猪木 1983年のラッシャー木村 アントニオ猪木とラッシャー木村は8...

ohh********さん

2018/2/206:35:02

評伝アントニオ猪木
1983年のラッシャー木村
アントニオ猪木とラッシャー木村は81年から83年の2年間に都合10回戦っています。
(1対3変則タッグ2試合含む)これは85、86年に6回対戦した猪木対

ブローディに重なります。ブローディが猪木の80年代後半のライバルだったように木村は猪木の80年代前半のライバルだったと断言出来る。
この時期の猪木は体調面でピークを過ぎて
事業にうつつを抜かし始めていました。そんな時に対戦カード賄ったのはブッチャーでもホーガンでもアンドレでもなかった。
愚直なラッシャーがウッシウッシと猪木のきつい攻めを受けて憎まれ役で相手をしていた。猪木がプロレスラー延命出来た功労者の一人がラッシャー木村だった。
1983年8月26日田園コロシアム。IWGP決勝戦で猪木が失神KO、タイガーマスク引退、
新日本クーデターで猪木は社長の座を追われて新間は退社。そんな不穏な中で行われた猪木の3ヶ月振りの復帰戦。俺の首をかっ切ってみろ!!猪木は試合後に夜空に向かって叫びました。
この日の対戦カードは
アントニオ猪木対ラッシャー木村
これまでに両者は8回対戦して(変則タッグ含む)4勝4敗となっていて決着戦の様相をていしていました。私が望んだのは木村が再三要求していた金網デスマッチでした。しかし新日本と猪木は頑として受けなかった
。これは新日本のマットではあるけれど、
猪木が金網の鬼と言われた木村の土俵である金網デスマッチに挑む事に少なからず恐怖感を持っていた部分もあったと思いますか?もしも金網デスマッチが実現していたとすればどうなっていたと思いますか?
ラッシャー必殺の肝臓破りのパンチが猪木に炸裂!!ウッシウッシと踏みつけていたかも知れません。
この試合は高橋の早いカウントもあって短時間で終わりました。翌9月の大阪大会。猪木対木村10回目の最後の対決は5分あまりの短時間で猪木がKO勝ち。週刊ファイト井上編集長はずっと愚直に憎まれ役を黙々と務めて来た木村を猪木が初めてライバルと認めて叩き潰しに出た試合だったと評しました。
なぜ猪木は木村の金網デスマッチを受けなかったのか。皆さんの見解をお聞かせ下さい。よろしくお願いします。
ラッシャー木村の全盛期は猪木の抗争していたあの2年間だったと思うし、そう思いたい。

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回答数:
5

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ベストアンサーに選ばれた回答

非公開さん

2018/2/214:20:02

私はアンチ猪木だったので当時は木村と同じ考えでした 金網戦で木村のOK勝ちであろう
しかし大人になった今考えてみると新日本マットで猪木が負けることはあり得ず
木村の得意な金網戦をやらないことで 木村の価値を下げないためのある意味温情とも言えます
「デスマッチなら木村に分が有る」という幻想を国際ファンに抱かせるというやさしさかもしれません 国際が潰れてから新国際軍団の誕生の経緯からいって猪木のせめてもの罪滅ぼしと考えるのは考え過ぎですかね
猪木や新日本にそんな人情味があるとは思えないかな?
そして最大の理由が他の方も回答してますが 金網戦はTV放映が出来ないということでしょう

  • 質問者

    ohh********さん

    2018/2/215:06:20

    そうですね。私も今回の回答見て木村が金網デスマッチで負けるのを回避していたのかもという考えに変わりました
    。やらなかったのは双方にとって良かったのかも知れないですね

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質問した人からのコメント

2018/2/3 08:55:26

デスマッチなら木村に分があるという幻想を国際ファンに抱かせる優しさ故に金網デスマッチが実現しなかった
夢のある回答をベストアンサーとさせてもらいます。当時、私も金網デスマッチなら猪木も危ないかもという幻想を抱いていました。
大甘ではありますが。当時の状況やテレビ中継等、的確な回答をくれた回答者の皆さんの見識の高さに敬意を感じずにはいられません

短い2年間でしたが猪木対木村の時代。幸せでしたね…

ベストアンサー以外の回答

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jkl********さん

2018/2/212:34:03

誤動作で共感したを
触ったようです。
PC不調。

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rib********さん

2018/2/209:51:49

なぜ猪木は金網デスマッチは受けなかったのか。 夢のない回答になりますけど金網ゲージが高かったから経費考えてじゃないですかね。 最後の試合なんかデスマッチみたいなもんでしたから無駄な経費かけなくても木村相手なら観客に凄み見せつけるくらいはできると猪木は考えたんじゃないかなあ。

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tks********さん

2018/2/209:50:20

猪木がデスマッチ嫌いだったからじゃないですかね。
チケットが売れてないから渋々行った上田戦でも、1回でいいからリング下に落ちてくださいという大塚氏の要請は頑なに拒否したとのことですし。

猪木は、腰痛で苦しみながら文句も言わずヒールファイトをするラッシャーさんの姿勢を高く評価しており、配下のレスラーに「お前ら、ラッシャーを見習え」と言ったというエピソードがあります。

また、オールスター戦での「ラッシャーVSストロング小林」のマッチメークについて、色んな人が「あの組み合わせは危険じゃないですか」と心配したそうですが、猪木は「二人とも性格がいいから大丈夫だよ。ちゃんとした試合になるよ」と意に介さなかったそうです。

このように、猪木はラッシャーさんのことを「プロの仕事ができる信頼に値する対戦相手」と認めていたようです。

ですから、猪木が怖がったということは無いと思いますよ。


あと、金網デスマッチをやったら、国際プロレスの二番煎じになるので嫌だという考えもあったかもしれません。

それに、国際プロレス時代は、金網デスマッチは倫理上問題ありとのことでTV放映されなかったんでしょ。
それを、テレ朝が放映するのもマズいという判断なんじゃないですかね。

(猪木VSラッシャーの決着戦がノーTVなんてもったいないことは、テレ朝はしたくないでしょう)

そもそも普通の抗争でチケットが売れていれば、デスマッチやる意味ないですしね。

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pop********さん

2018/2/207:22:20

世間へのインパクトという意味では、おっしゃる通り新日本時代がラッシャー木村の全盛期と捉えてもいいと思います。

フィジカル的には国際プロレス時代、さらに膝の粉砕骨折をやる前なので70年代半ばが全盛だったと思いますが、新日本時代のはぐれ国際軍団のヒール的なインパクトは凄かったですからね。

同様にアニマル浜口、寺西勇のレスラーとしての全盛期も同じ時だったと言えると思います。

浜口は維新軍の時も確固たるポジションを得ましたが、世間には響きませんでしたからね。

さて金網の件ですが、ラッシャー木村は金網の鬼です。流石に代名詞の金網デスマッチで、いくら猪木相手でも負けブックはいくら木村たちでも飲めなかったかと。

新日本側からしたら、シングルで猪木が木村に負けるストーリーを描くわけがないので、金網やるにしても猪木の勝ちは動きません。

なので、金網の実現に関しては木村側から負けブックなら実現不可、というところではなかったかと思います。

猪木的には勝ちブックならなんでもいいよ、ではなかったかと。

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