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豊臣秀吉は石田三成のどこを気に入っていたのでしょうか?

kok********さん

2018/4/2922:35:53

豊臣秀吉は石田三成のどこを気に入っていたのでしょうか?

石田三成は秀吉にとって親族でもないのですが
側に置き続け重く用い五奉行に取り立て
最後には豊臣家を託してまでいます。
この関係は浅野長政や福島正則、加藤清正など縁者と
同等かそれ以上で三成は彼らから
深く嫉妬されていたとも言われています。

もちろん官僚として優秀だったとことが基本でしょうが
秀吉と三成の間にはそれ以上の物が見られます。

なぜ秀吉は三成を、この親族と同等かそれ以上にまで
信頼し重く用いたのでしょうか?

また秀吉の死後にその三成を襲撃した
浅野幸長、加藤清正、福島正則などは
三成にどういった感情を抱いて襲撃したと思われますか?

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han********さん

2018/5/615:50:51

>最後に豊臣家を託しています
託していませんけど唯一の大臣職でもなければ一門でもなく最大勢力でも人望もない三成に何ができると

>長政や正則や清正などの縁者と同等かそれ以上
長政は筆頭奉行ですし正則は秀次亡き後の尾張を任されていますし官位も子飼いの中では一番上です
三成はそれらなにもありませんが

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sun********さん

2018/5/109:30:13

秀吉は姉川の合戦で活躍して、初めて城持ち大名になりました。この城が現滋賀県長浜市の長浜城です。

城下町の経営や軍団の維持のために、急遽家臣団の増員をしました。この時の家臣団が「近江衆」(石田三成、小堀正次、田中吉政、片桐且元、脇坂安治など)です。

三成を含む石田一家はこの時の家臣団に含まれます。つまり、三成は秀吉が大名になって初めて持った家来の中の一人で、その後、秀吉が死ぬまで一家そろって仕えています。

三成と秀吉の出会いは「三献の茶」で有名です。この話は創作だと思いますが、ともかく、田舎の豪族の息子から秀吉の側小姓としてとりたてられ、関ヶ原合戦で死ぬときまで秀吉の家来であることしか知らなかった人です。

秀吉自身、戦功よりも政治的手腕で信長に認められることが多かった人で、自分と同じタイプの三成に親近感を持って重用したとも考えられます。行政能力が高いというのは、秀吉から見ると高得点だったと言うことです。

三成だけでなく、父石田正継や、兄石田正澄も行政の手腕が高く、北近江一帯や堺、博多の経営も任されています。三成が重用されていたというよりは、石田一家が信頼されていたとも考えられます。

yos********さん

2018/4/3011:11:56

秀吉以上に不細工だったからです。

石田三成は矮躯でひょろっとしたウラナリの青い顔、金槌のように異様に飛び出したオデコ、当時としても酷い出っ歯と容姿は最悪であり、その上、性格も根っからの太鼓持ちときて性根から腐ったこれ以上にないくらいのブサイクです。

猿だのハゲネズミだのと揶揄されていた秀吉にとって自分以上に不細工な太鼓持ちが見ていて心地よかったのでしょう。

加藤清正は、秀吉の生前から三成のことを、不細工な太鼓持ち野郎と面罵しています。

ojy********さん

2018/4/3000:16:49

組織を動かす頭脳は三成しか居ない
と思っていたのでは?

azu********さん

2018/4/2923:08:54

福島、加藤などは、所詮、秀吉死後、家康の天下となると、家康についた卑怯者です。秀吉はそう言う点を見抜いていたのでしょう

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