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阿闍梨の千日回峰行 あれはただの、朝早起きの遠足だろ やり遂げると神にで...

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ID非公開さん

2018/5/2721:01:54

阿闍梨の千日回峰行

あれはただの、朝早起きの遠足だろ

やり遂げると神にでもなったように崇められ

本人もそう思っているみたいだけど、、何処が偉いんだろ

大変なの解るけど幼稚過ぎないかい?

仏教徒は全く関係ないし、、

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回答数:
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ベストアンサーに選ばれた回答

nak********さん

2018/5/2802:23:29

自分で決めたことを「とことんやる」という修行だけど、「千日」という限定をしちゃうところが間違いだろうね。
歩き続けりゃ判る、「考えること」がなくなっちゃうのだよ。
で、ほとんどのことがどうでもよくなっちゃう。

しかし、「自分が偉い」と思ったのなら、修行は失敗に終わったということだなあ。
二回もやってる人がいるけど、「まだ判らんのか?」と思ってしまう。

つまり。
判る人なら、一週間でも判るでしょ。
判らん人は20年やったって判らない。
修行って、そんなもんですねえ。

早い話、通勤時間片道3時間のおとっつあんが、40年間、マイホームから会社に通勤してたら悟れるのか?ってのとほとんど変わんないでしょう?

仏教とは関係ないのか?

六波羅蜜の中に、「持戒・忍辱・精進・禅定」っていうのがあるのね。
やってはいけないことは絶対にしない。
我慢する。
一生懸命やる。
自分の心を見つめ続ける。

そういう見方をすると、この修業が仏教徒はあながち無関係だとは言えないでしょう。

考えることが全くなくなった時。
「眼だけが移動してる」って感じになるのよね。
その時に見える世界が「真理」なのだ・・・。
そういう意味だと思う。

ちなみに。
摂氏45度くらいの砂漠をたった一人で3時間ほど歩いてみりゃ、私の言ってることが理解できるでしょ。
暑くてきつくて何も考えられなくなり、自分がどこにいるのかさえ判らない。
そういう状態になっちゃうのね。

川岸に座って、延々と水を見つめててもいいのだよ。
早朝から、日没まで。
毎日。
ずっと。
何も考えることがなくなるまで。

ちなみに。
阿闍梨になったからといって、僧侶の階級が上がるわけではありません。
「やり遂げた人」と呼ばれるだけです。

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    質問者

    ID非公開さん

    2018/5/3119:51:51

    確かに期限を設けてしまっては、意志の訓練と、我慢大会になってしまいますよね。
    やはり、悟るまで回峰行、、でなくては行といえないですね。
    やり遂げる事の究極の目的はやはり悟りに行きつくのだと思いますが、歩くことと日数に限定してしまっては、何じゃありゃー、、というレベルで終わりですね。


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ベストアンサー以外の回答

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fun********さん

2018/5/2721:08:12

頑張って難行をやった達成感はあるだろうけど
仏教とは関係ないですよね

人間なんかいつ死ぬかわからないから即身成仏しないと意味無いですからね

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