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魏は日本をどのように”監督”していたか?

his********さん

2018/6/110:22:50

魏は日本をどのように”監督”していたか?

ある本に以下のような記述がありました。

-邪馬台国の時代には、北シナの魏が、楽浪・帯方の二郡を通じて朝鮮および日本を監督下においていた。したがって、朝鮮および日本の政治秩序は、強大な魏の勢力によって規制され、また魏はこれらの国々の事情をよく観察し、記録することができたのであった。

当時の日本の状況がいわゆる『魏志倭人伝』に詳細に記述されていることはよく知られていますが、上述の記述にあるように日本は魏に”監督”されていたのでしょうか。
“監督”されていたとしたら、具体的にどのようにでしょうか。
当時の日本の具体的な状況は『魏志倭人伝』に記述されている以外、寡聞にして聞いたことがないのですが、同書の中に”監督”の仕方まで記述されているのでしょうか。

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ベストアンサーに選ばれた回答

mon********さん

2018/6/112:32:51

魏国の軍隊が渡海して倭国を平定するのは無理でしょう。
ただ単に、倭国が魏国へ朝貢する時に
魏国が朝鮮半島に設置していた楽浪郡や帯方郡で応対していただけです。
監督下に置いていたかどうかは、魏国から倭国を見た場合の
精神的なものにすぎません。
魏国の東方への軍事侵攻は、朝鮮半島の東部までです。

正史三国志の魏書にも、魏国の将軍が半島を制圧した時に
現地(朝鮮半島の住人)の住人に
大海(日本海)の向こうの国(倭国)について尋ねた記述がある。
なんでも、彼らは三韓人(半島南部)とも異なる言語をしゃべり・・・
と、詳しいことは忘れたけど、そんな記述があったと思う。
たしか、倭人条の中の記述ではなく、別のところでの記述。

  • mon********さん

    2018/6/115:16:57

    ちなみに、邪馬台国はヤマト国のことであり、卑弥呼とは姫命のことである。
    西暦240年代の女王卑弥呼とは、日本書紀に記載されいる
    ヤマトトトヒモモソ姫命という皇族の巫女です。
    西暦240年代、彼女はヤマト朝廷の最高権威の巫女であり、
    その当時の最大権力者であるミマキイリヒコ(崇神天皇)は
    父方の大叔母にあたるヤマトトトヒモモソ姫命の占いも参考に、
    実際の政治を見ていた。

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質問した人からのコメント

2018/6/5 00:03:49

皆さん回答有難うございました。質問の核心部分だけでなく、その周辺状況などに関し有益な話をいろいろお聞かせ頂き、大変勉強になりました。

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knn********さん

2018/6/207:28:00

松本清張『古代史疑』によると伊都国に置かれ諸国を検察している一大率は魏の役人だと書かれています。
松本清張の推理かもしれませんが、推理で片づける訳にはいかないと思っています。

pin********さん

2018/6/206:57:43

「卑弥呼」が、南の「狗奴国」との戦闘状況を伝えて救援要請をすると、即行で「帯方郡から国境警備の司令官が軍人を連れてやってきます」。
この状況は、どう見ても「帯方郡(魏)」の管理監督の範囲内ではないですか!

2018/6/205:51:34

監督するなら、役人か兵士くらい派遣しそうなものですが、そんな記述はありません。卑弥呼は魏に朝貢して印や鏡を貰って邪馬台国の権威を高める事に利用した様です。
魏の側に朝貢を受けたと言う事は、中国の正統な政権として認められたと言う事ですから、倭国を監督する理由はありません。
帯方郡を通じて使者や貢ぎ物を差し出してますので、その事を指しているのでは?

ひでおさん

2018/6/205:11:29

魏志韓伝に、

建安中(196~220)、公孫康、屯有県以南の荒地を、帯方郡となす。
… この後、倭、韓、遂に帯方に属す。

とあります。

これが、倭が帯方郡の一部になって、「日本が魏に”監督”されていた」ことを示すのではないでしょうか?

もちろん、倭が、朝鮮半島と地続きだと勘違いされて、支配下に置かれたと誤解された、とも考えられます。

でも、帯方郡が、倭の盟主国が日本列島にあることをしらないで、かってに、倭を属国にしたと思い込んだ、とは考えにくいですね。

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u7m********さん

2018/6/117:04:23

交通も通信も発達してない時代で「監視、監督」なんて今のイメージのようには出来っこありません。中国式の「冊封体制」は、正式に貢物を持ってきて頭を下げたら「それでよし」です。中国以外の国は全部「取るに足らない野蛮国」ですから、脅威もない。たまに挨拶に来れば土産物を渡して帰す程度の付合いで十分だったのでしょう。
魏志倭人伝の終盤に西暦238~247年ごろの出来事として、卑弥呼が魏に朝貢して来たので,魏は「親魏倭王」の認証と印綬を授けたこと、その後邪馬台国が狗奴国と争って困ってると相談しに来たので、魏の出先機関である帯方郡から武官を派遣し、説諭した(うまく治めろ、とかの内容だと思う)など何度かのやり取りがあった事が書かれています。当時の関係とはこのようなものです。
つまり中国の軍人や官僚が日本に駐在し、政治経済を取り仕切るような後世の「植民地」のような支配体制に組み込むような形ではなかったし、当時の交通通信事情や統治レベルでは双方ともそのような体制はとても取れなかったと思います。

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