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岐阜県東部の戦国大名遠山一族で教えてほしいです。あと知恵袋で遠山一族に詳しい...

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ID非公開さん

2018/7/2210:22:04

岐阜県東部の戦国大名遠山一族で教えてほしいです。あと知恵袋で遠山一族に詳しい人はどなたでしょうか?

地元のお殿様の遠山一族を調べてますが、信長とも斎藤道三とも武田信玄とも仲良く

喧嘩していて意味不明なのです。
田舎のお殿様が、周りの強大な大名たちの隙間でどうやって生き残ったのか解説をお願いしたいです。

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川崎さん

2018/7/2404:52:01

遠山氏は、織田・斎藤・武田と、名だたる戦国大名に囲まれていたため、境目の武士として生き残りを計るため、複雑な外交を繰り広げます。

まず、遠山氏ですが、東美濃の各地に根付き、地名をとって岩村遠山氏や苗木遠山氏、明知遠山氏などがありました。

岩村遠山氏の遠山景任は、織田信長の叔母を妻とします。また、景任の叔父である苗木遠山の遠山直廉は、信長の妹を妻とします。

1540年頃は、信長の父親と斎藤道三は戦争をしております。織田一族を妻とした遠山一族も、斎藤との関係が悪かったようです。
しかし、信長の父親が死に、織田家が内乱により一時的に弱体化すると、遠山氏は窮地となります。

その頃、遠山氏の東側に南信濃を制圧した武田信玄が現れます。
そのため、遠山氏の多くは武田信玄に従うこととしました。

これに斎藤道三は反応します。

斎藤道三は、娘の婿となっていた織田信長にも声をかけ、苗木遠山を攻撃します。武田信玄も遠山氏へ援軍を送り、戦闘状態となりました。
遠山一族は、この事態を打開するため、武田家に従いながら、織田にも従うという「両属」という道を選びます。

この両属は珍しいことではなく、強い勢力に挟まれた、他の小さな勢力にも見られます。

しかし、織田にも従ったため、織田信長の要請により、愛知県三河地方の今川家臣を攻めることとなります。
これにより遠山氏は、織田と武田に従い、織田と同盟中の斎藤から攻撃され、武田と同盟中の今川を攻めるという、超複雑な事態となります。

しかし、斎藤道三が死に、織田と斎藤が敵対すると、織田は今川を攻める余裕がなくなり、遠山氏の情勢は織田と武田に従えば、遠山の地で戦争をしなくても良くなります。
そした遠山氏は、武田の要請により、川中島の戦いや飛騨へと出陣します。

その後、桶狭間の戦いや斎藤家滅亡などで情勢が変わり、武田は今川と敵対し始め、織田と武田との関係が良好となります。
織田と武田は一族同士を結婚させることとし、遠山に嫁ぎ産まれた信長の姪と、武田信玄の息子・勝頼が結婚することとなります。

この時期が一番安定していたようです。

しかし、織田一族の女性を妻としていた遠山景任と、遠山直廉が相次いで死にます。
男子がいなかった岩村遠山氏の跡継ぎとして、信長は息子を養子として送ります。

これに、遠山一族の中で武田に近い者が反発します。
また、信玄も信長の息子の養子入りを、良くは思っていなかったようです。
遠山一族の一部は、武田に援軍を要請し、信長の息子は捕らえられ、岩村城は武田の物となります。

ここにいたって武田と織田は全面戦争に突入します。
遠山氏も、織田派と武田派に別れ、一族同士の戦争を繰り広げることとなります。

その後、上村合戦、明知城の戦い、岩村城の戦いにより、織田が武田に勝ちます。
武田に近い遠山一族は粛清され、織田が遠山を支配する形で安定し、遠山の戦国時代は終わりとなっていきます。


このように遠山一族は、それぞれの大勢力と、時には従い、時には戦います。
時には、結婚や養子縁組みをしたり、二つの勢力に同時に従ったり、必要なら従った相手の同盟相手も攻めたり、一族同士の殺し合いもしました。

遠山一族は、このようなあの手この手を駆使して戦国の荒波を乗り越えます。
そして、江戸時代にまで生き残り、名奉行・遠山の金さんを輩出します。

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2018/7/26 14:44:02

助かりました!

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ibv********さん

2018/7/2220:58:38

遠山氏の祖は加藤景廉という武将で、源頼朝の重臣として活躍した功で遠山荘(現在の岐阜県恵那市・中津川市・瑞浪市の一部)を与えられたのが起源となっています。

鎌倉時代の美濃は執権北条氏の直轄領だったため、鎌倉時代の遠山氏は北条氏の傘下にいたと思われます。

その後、室町時代には美濃守護になった土岐氏の傘下になったようです。

室町時代に起こった応仁の乱で遠山氏の主家である土岐氏は西軍につきましたが、東軍として美濃に攻め込んだ小笠原と木曾の軍勢に破れたため、その後遠山氏は木曾の配下になったものと考えられています。

その木曾も武田氏の傘下に入ったため、遠山氏は武田氏の配下に加わる事になりました。

武田氏と斎藤氏の関係が悪化した際には武田家の家臣として斎藤家と戦っていますが、織田と斎藤の争いを武田氏が介入した際には遠山氏が介入のために用いられたそうです。

そのため武田、織田、斎藤とつながりがあったと考える事ができます。

戦国期の美濃遠山氏は幾つもの家に分かれており、それぞれが武田、織田について戦い、武田勝頼の時代に武田、あるいは織田信長の侵攻で滅びた遠山氏もありましたが、徳川家康の時代に関ヶ原の戦いに東軍として活躍した遠山友政が旧領に攻め込んで功をあげ、それが苗木藩主として江戸時代まで残ったそうです。

つまり、遠山氏は強大な勢力の狭間にいた小豪族でしたが、強い勢力の傘下に入ったり、たくさんの分家に分かれて命脈を保ったという事で、当時の弱小勢力が使う最も典型的な生き残り術を用いて戦乱の時代を生き残る事ができた、という事になるかと思います。

tan********さん

2018/7/2210:29:33

その時々の調子のいい大名に従う。

遠山が、と言うより、ごく少数の強大な勢力を築いたもの以外は、全部同じような行動をとります

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