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結城秀康のwikiの次の記述について教えてください。

net********さん

2018/9/1602:00:49

結城秀康のwikiの次の記述について教えてください。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%90%E5%9F%8E%E7%A7%80%E5%BA%B7#越前移封とその後

ここに、「結城旧来の家臣の中には越前への移転を拒否するものが少なく、それ故この越前移封は最終的な在地離脱の強制として機能したもので、その結果秀康は自らの権力における旧族結城氏よりの継承面をほぼ払拭することができた。」とあります。
この「越前への移転を拒否するものが少なく、」と「旧族結城氏よりの継承面をほぼ払拭することができた。」が矛盾しませんか? 最初の文は、「少なくなく、」=「多く」の間違いではないのでしょうか。
でも、もしそうだとしたら、結城旧来の家臣の多くが越前へ付いて行かなかったということですが、その場合、越前で新たに家臣を召抱えたと言う事でしょうか。また、従わなかった旧家臣たちはどうなったのでしょうか。新たな下総の領主に仕官できたのでしょうか。

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jun********さん

2018/9/1603:31:40

確かにおっしゃる通りですね。


>越前で新たに家臣を召抱えた

転封前の結城氏は10万石なので、どっちにしても、
新規召し抱えを増やさないとならなかったと思います。
秀康の死後、二代目の忠直が幼いため、
越前騒動と呼ばれる、大きなお家騒動が起こります。
これは、新規召し抱えの家臣が多く、束ねていた秀康が死んで、
対立が先鋭化したためと言われています。
恐らく、関ケ原合戦で失業した武士たちを大量採用したのでしょう。


>従わなかった旧家臣たちはどうなった

旧結城家の家臣団は、多くが鎌倉時代からの国人領主や、
地侍なので、その土地から離れられないというのが理由でしょう。
中には弛緩できた者もいると思いますが、多くは帰農したと思います。
下総や武蔵では、北条氏の滅亡の際に、
多くの坂東武者の流れを汲む家系が、帰農しているので、
結城氏家臣団の多くも、これに倣ったと思います。

質問した人からのコメント

2018/9/16 14:07:25

ありがとうございます。
納得しました。
感謝いたします。

ベストアンサー以外の回答

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ski********さん

2018/9/1611:33:43

越前に移ることに関わりなくすでに結城は没落しており家臣はほとんど自立状態ですから付いていきません。血脈も断絶しているため、名前だけなのです。

正室には男子がないので庶子に結城を継がせましたが、やがて松平に統一されて、名前も消えました。

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