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石田三成は「人望がなかった」という評価はま違いではないでしょうか?

kok********さん

2018/10/1315:01:21

石田三成は「人望がなかった」という評価はま違いではないでしょうか?

石田三成は「優れた官僚」だが人望がなかったとよく評されます。
親友である大谷吉継ですらそのように言ってますよね。

しかし三成は北は津軽、伊達、上杉、佐竹、南は毛利、島津らの取次、奉行として世話をし彼らも恩義を感じており、伊達政宗などはわざわざ浅野長政から変更して三成を指名しています。さらに宇喜多や小西などともつながりを持っています。

大老である家康に対していち奉行にしか過ぎない三成では完全に不利とされた
「関ヶ原の戦い」でも津軽と伊達を除いて全て西軍についています。

三成が人望が無かったという意見は日本人らしい偏見に満ちた物言いで
これだけ全国的に人脈があり、これで三成が「人望がない」とはとても思えません。
見方を変えるべきではないでしょうか?

私にはエンタメ程度の知識しかありませんが、歴史に詳しい方、ご意見をお願いします。

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ベストアンサーに選ばれた回答

mas********さん

2018/10/1720:58:54

人望と言うシンプルなワードで全てを解決しようとすると色々無理が出てきそうな気がします。

確かに西軍の負け組なので結果論で判断されがちなのが残念ですね。

以下なんの根拠もない推論ですが、

◯三成に取次役変更の件
三成に取次変更になった件は不勉強故に存じませんでしたが浅野長政と不和になった上での変更ですのでそれを持って三成の人望と理解するには無理がありそうです。

また三成は豊臣秀吉の懐刀として周知の存在ですので希望が叶うなら三成を選びたいと言うのは人望云々を抜きにして当然だと思います。

◯三成が取次をしていた大名の大多数が西軍についた件
上杉景勝、毛利輝元、宇喜多秀家に関しては徳川家康が他の五大老を蹴落とす事を目的として秀吉仕事の政局を回していますので西軍に着くのは自然な流れです。

加えて宇喜多秀家は宇喜多騒動の裁定で家康に遺恨有りですからどうしようもありません。

小西行長は文治派だったはずなのでやはり西軍よりでしょう。

残念ですが彼等の西軍加担も人望故とは言い難いと思います。


◯石田三成の人望
残念ながら諸大名の動向からは石田三成が人望があったとは言い難いのですが戦上手との評価がない石田三成の関ヶ原の戦いにおける善戦をみれば士気の高さと良く統率されている所が見てとれます。

加えて島左近を始め幹部クラスや留守部隊など命を惜しまず戦った事を鑑みれば部下に対する人望はかなりあったのではないでしょうか。

思うに石田三成の人望とは三国志の関羽のように弱者に対する優しさに基づいたものであり万人向けではなかったのかもしれません。

質問した人からのコメント

2018/10/20 02:22:34

回答ありがとうございます。三成の人望とは関羽に近いというご回答にとても深く納得がゆきました。関羽の劉備に対する忠義や人徳にその不器用な生き方などとても石田三成に近しく思いました。素晴らしい御回答ありがとうございます。また質問をしました際に良ければ回答を下さるとうれしいです。

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hoj********さん

2018/10/1721:15:37

エンタメ程度の知識で「日本人らしい偏見」とは、よくおっしゃいました。
あなたは日本人の何を知っているのですか?
あなたの言うエンタメというのはアメコミか何かなんでしょうか。

nip********さん

2018/10/1608:55:44

徳川家康と比べたら人望は無かったかもしれないです。普通に人望はある。そうでなければ西軍として諸大名を動かして大戦なんか出来ない。僅か19万石の大名でありながら400万石近い徳川家康と戦をしたという事が凄いですね。全て徳川家康と比べたらです。

peace2qazさん

2018/10/1321:53:14

辞書によると、

>人望

信頼できる人物として、人々から慕い仰がれること。「人望を集める」「人望を失う」

太閤秀吉から行政全般を任され、飢饉のときの善政で救われた近江の国では決死の覚悟で匿う農民がでるほどです。

朝鮮出兵では加藤らの怒りを買いますが、誰かが注意し太閤に報告しなければいけない状況でした。そういったことができる人物として三成は周囲から認められたはずです。

太閤薨去の後、加藤らは三成を襲撃し隠居に追い込み、家康とともに上杉を謀反人として征伐に向かいます。

三成は隠居の身でしたが、会津攻めを阻止すべく編成された西軍の事実上の指揮官になっているのは人望のなせる業でしょうね。

前田利家・毛利輝元も大老として徳川家康の専横に頭を悩ませ三成の手腕に頼り、全国の多くの大名も味方したのはひとえに人望そのものです。

徳川家康も人望のある律儀者でしたが、その信頼を逆手に取りタヌキへと成り下がってしまうのはご存じの通りです。

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jun********さん

2018/10/1320:04:10

肝心の豊臣家中で人望が無いのだから、
豊臣家が二つに割れてしまったのです。
人望があれば、少なくとも、豊臣子飼いの家臣団の大半は、
三成に従うでしょう。

外様の諸大名が、三成と親しかったのは、
豊臣政権の中枢にいて、秀吉の動向を探るのには、
最も役立つからで、本人の人望ではないと思います。
秀吉の死後は上杉・佐竹は地政学的に、徳川と対立する立場にあるから、
三成に味方したと見るべきです。
また、毛利は三成に味方したというより、安国寺恵瓊に乗せられて、
西軍の対象に祭り上げられただけでしょう。
島津は西軍に参加したにもかかわらず、三成が怒らせてしまってます。

nad********さん

2018/10/1318:13:08

人望はないと思われます。
そもそもあなたは天下分け目の東軍と西軍の戦いというものがどういうものか分かってますか?
あれは明らかに徳川と毛利の覇権争いでしょう。
東の京を持った徳川と西の京を持ってる毛利に政権豊臣は幼少であれば覇権を握るのはこのどちらかと消去法で分かります。
そこに福島と加藤、石田、増下など豊臣の重臣らの派閥争いが起きてしまったというだけでしょう。
そもそも毛利中心の西軍で輝元がいたから集まったのでしょう。
あなたの見解であれば三成の人脈ではなく、輝元の人脈で集まったと見るのが正解だと思います。
それで三成中心の軍勢は指揮系統は前哨戦から無茶苦茶。
多くの武将からの不信を見ると三成に人脈があったとは思えません。

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