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文学における美はどこにあると思われますか。

ext********さん

2018/10/1923:06:52

文学における美はどこにあると思われますか。

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ベストアンサーに選ばれた回答

jac********さん

2018/10/2117:31:24

もし、質問者さんが、「美」ってのは、ある固定的な場所に、実体を備えて鎮座しているかのようにイメージしているとしたら、まず、そういう神話、迷信からすぐにご自身を解き放ってください。

その上で、「文学における美」を考えるとすれば、文学の起源、原型としての詩における「美」について考えた方がより分かりやすいような気がします。

すると、人が現実世界(環境世界)に反応し、それと感応、交感、融合、一体化したときに発する言葉が詩であり、この言葉(詩)が生れる過程をこそ、厳密な意味での「文学(言葉)における美」と呼べるのではないでしょうか。

なぜって、このとき、【人=言葉=現実】が一種の三位一体の関係で結ばれているはずですから。

なお、「文学における美」に限らず、他の芸術(音楽、美術、身体芸術等)における「美」についても同様に説明され得ると考えられます。

  • jac********さん

    2018/10/2223:06:24

    要するに、「文学における美」は、言葉(文字テクスト)の中にあるわけでも、人(作者、読者)の中にあるわけでも、現実世界の中にあるわけでもなく、これら三者が有機的に一体化したときに発生する、【言語道断の何か】としか規定しようがないということです。

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質問した人からのコメント

2018/10/23 21:10:34

文学に美はないというのが私の考えです。思想はあるでしょうね。ありがとう。

ベストアンサー以外の回答

1〜1件/1件中

ota********さん

2018/10/2021:40:46

美はさまざまな形態をとるものであり、極端なことをいえば、醜さに擬態した美もあるでしょう。

しかし、美がどのような形態を採るとしても、文学作品において美が存在する場所はおおかた決まっていると思います。


美は物語の本質とともに存在します。名作においては、いたずらに美が描かれることはありません。美は物語の主要な要素とかかわりがあるときにのみ姿を現すのです。

昔のギリシャの伝説にオイディプスという王様の話があります。オイディプスは、それとは知らずに自分の父親を殺し、それとは知らずに自分の母親と結婚してしまいます。古い伝説では、彼は悔恨と失意に打ちのめされながらも王として政治を続け、その後、戦死という比較的地味な最期へと生涯を閉じます。ところが、この箇所は三大悲劇詩人の時代に至るまでのあいだに変化します。自身の過ちを悟ったオイディプスは、罪の重さを一身に背負うため、我が目を潰して放浪の旅に出る、という形になるのです。この改変がいつ誰によってなされたものかは不明とされていますが、この王が悲劇的人物として現代にもその名を響かせているのは、途中で話を変えてくれた人のおかげでしょう。ある天才の美意識がオイディプスの目を潰させ、大衆の美意識がそれを支持したのです。正気とは思われない常人離れしたやり方で、怖ろしい運命をすべて受け入れる王の偉大さは、美と切っても切れない関係にあるというわけです。

それとは逆に、美が卑俗さと結びついていることもあります。卑俗というよりは、鮮烈な個性と言ったほうが当を得ているかもしれません。ともあれ、上記の例と同じく「目」にまつわる事柄なのですが、『竹取物語』において次のような一幕があります。竹取の翁は、自身の権勢欲が災いして、車持の皇子の悪だくみにあっさりと騙されてしまいます。翁は自分が結果的に皇子の片棒を担いでしまったことに居たたまれなくなり、その場で「居眠り」をします。この行為は卑小といえば卑小なのですが、この場面を発案した人は、簡素で峻厳であったであろう伝説に複雑な味わいと抒情性を持たせたという意味で、非凡な人物です。そして、この場合もやはり美意識が翁に居眠りをさせ、その居眠りを別の美意識が受け継いだといえます。

オイディプスの美が無個性による個性から生じるものだとすれば、翁の美は普通の意味での個性から生じるものです。どちらの美も人の心を根本から動かす力を持ち、また、どちらの美も物語の本質と大きなつながりを持っていると思います。


文学の美は、また、自然とも関わりがあります。

ドストエフスキーは、画家ホルバインの描いた『墓の中の死せるキリスト』をひどく恐れていました。それは、キリストといえども肉体の腐敗という自然法則に従わなければならない、という理由によるものです。そして、彼の作品の登場人物たちも、法則としての自然(愚鈍で機械的で冷酷な自然)を極度に恐れます(『地下室の手記』など)。しかし、この登場人物たちはまた、優しく包容力のある自然現象に癒されもします(『罪と罰』のエピローグなど)。――(参考:中村著『ドストエスフスキー、生と死の感覚』岩波?)

ドストエフスキーの作品に見受けられる二つの自然観は、たいへん極端なものです。けれどもそのうちの片方、つまり人の心を癒す自然というものは、多くの文学作品にそれなりに当てはまる事柄です。これには、わざわざ大岡昇平の『武蔵野夫人』を持ちだすまでもないでしょう。そして、現象としての自然は、作品の主題となんらかのつながりを持っていることが多い。アンデルセンの作品に見受けられる日の光、そよ風、夜空の星、雪、寒風、暖炉にゆらめく炎、人間の物理的な影。E.ブロンテの『嵐が丘』に吹きすさぶ風。さまざまな作家の作品に現れる長雨、火事の炎、うだるような暑さ……。こうした自然現象は作品の主題を反映したり、主題の容器となったりします。そして、そこにはまた美も存在するというわけです。


主題と形式の一致という美もあります。

イソップの寓話が高い評価を受けるとすれば、寓意の素晴らしさというよりは、寓意と表層との絶妙な組み合わせという点においてでしょう。この「主題と形式の一致」というものは、本の感想なり映画の感想なりで、誰でも無意識のうちに重視している、と自分などは思っています。


国木田独歩の『武蔵野』が好きなので、②に入れようと思ったのですが、うまく入りませんでした。武蔵野はそのものずばりですね。人が管理する自然の美しさがあれなのです。ちなみに原作はカヤの原のことがなにか過去のことのように書かれてありますが、萱原はパッチ状の地形の一区画として結構最近まで残っていたらしいです(ネット情報ですけど)。萌芽更新した落葉樹の二次林と畑と萱原がキルトのように入り乱れる……これが少し前の武蔵野の面影なのだとか。燃料革命やら、肥料の変化などによって、今は林が極相化しつつあるらしく、武蔵野の面影という意味もだんだんと変わっていくのかなと思ったりします。質問とあまり関係ないかもしれませんけど。


美の在りかについては、もっといろいろな考えがあるかと思います。例えば「美は読者の心のなかにある、」といえば、まあそうかもしれない。

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