西郷隆盛が征韓論者だったのは何故ですか?

西郷隆盛が征韓論者だったのは何故ですか? そもそも征韓論者だったんですか?

日本史 | 歴史345閲覧

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2018/11/1 20:23

「使節派遣→暴殺→出兵」も征韓論とみなすようなので、その意味ではそうかもしれません。 ただ、西郷の意図はあくまで朝鮮との間に樽俎折衝を成し遂げる事であり、それが叶わない場合は朝鮮へ派兵して開戦すべし、という論です。 西郷の朝鮮論は平生からの抱負だったのは間違いありませんが、なぜあの時にこのような主張をしたかといえば、対内的にも対外的にも好機だと考えたからに他なりません。 ・ロシアや清国は朝鮮の件に干渉しないと明言している(もしこれに反して干渉するならば一戦する覚悟だったんでしょう) ・朝鮮を大陸進出の足掛かりにできる(策源地とするとか、ホンの通り道だとか西郷は言っています) ・不平士族を押さえ込む口実になる(談判が成功すれば桐野や篠原を送り込んで鎮守にし、決裂すれば士族達を戦争に利用できる) 他にも理由は色々あると思いますが、主な理由はこの辺りかと。

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2018/11/2 10:58

大久保等が反対した理由は、有事となれば兵を出さざるを得ないからです。 西郷が殺されなかったとしても、使節が退けられた以上は国家の体面上、武力に訴えざるを得ない。西郷がそうならないとは保障できない。それよりかはまず内治を整えるべきだ。というのが大久保等の主張です。根本には国家の柱石である西郷が犠牲になるかもしれないという危惧があり、万が一そうなれば国内の士族を鎮静するということにも差し響きます。 何も権力を握りたいとか、西郷を追い出したいとかは大久保等にはないですよ。

ThanksImg質問者からのお礼コメント

回答していただいた方々、ありがとうございました。勉強になりました。

お礼日時:2018/11/3 14:40

その他の回答(4件)

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征韓論=韓国を武力で征する というのであれば西郷が征韓論者というのは極めて怪しい よく板垣書簡が持ち出されるが あれは板垣をなだめるための方便と見たほうが正しいであろう 実の所は、朝鮮と一触即発という状態ではなかった 和館の日本人が暴動を起こして脱走して鎮圧されたのだが ただの一人も怪我さえしていない つまり西郷が使節として行っても殺される可能性は極めて低かったということ これではいくら西郷が戦争したくても戦争に持っていきようがない で、西郷はそのことも十分知っていた つまり純粋に使節として行きたかったんでしょうな 戦争になると変なデマを三条などに吹き込んだのは帰朝組の岩倉や大久保 これは西郷の名声が今以上に大きくなることを恐れた政治的な理由

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西郷隆盛は、征韓論者でした。征韓の目的について、西郷隆盛自身は、手紙では(旧武士の中の政府への強い不満を指していると思われる)『内乱を願う心』を外に転じて『国を興そう』とするものだ、と語っていました。 西郷隆盛の書簡から引用します。 まず、板垣退助宛明治六年八月十四日付け書簡からの引用です。 『是非此処を以戦に持込不申候ては、迚も出来候丈けに無御座候付、此温順の論を以はめ込候へば、必可戦機会を引起し可申候付、只此一挙に先立、死なせ候ては不便抔と、若哉姑息の心を御起し被下候ては、何も相叶不申候間、只前後の差別あるのみに御座候間』(以下略) 大意「ここで戦に持ち込まなかったら、とても出来そうにないから、ソフト路線で“はめ込めば”必ず戦争の機会を引き起こせるだろうから、この挙に先立って(自分を)死なせてはかわいそうだと、姑息な事を考えてしまうと、何も出来なくなる、(死ぬのは)前か後かの違いしかない」 (↓の大西郷全集第二巻の七五一頁で見られます) https://archive.org/details/daisaigzensh02saig 板垣退助宛明治六年八月十七日付け書簡からの引用です。 「戦は二段に相成居申候。只今の行掛りにても、公法上より押詰候へば、可討の道理は可有之事に候へ共、是は全言訳の有之迄にて、天下の人は更に存知無之候へば、今日に至り候ては、全戦の意を不持候て、隣交を薄する儀を責、且是迄の不遜を相正し、往先隣交を厚する厚意を被示候賦を以、使節被差向候へば、必彼が軽蔑の振舞相顕候のみならず、使節を暴殺に及候儀は、決て相違無之事候間、其節は天下の人、皆挙て可討の罪を知り可申候間」 大意「戦いは、二段階になる。今の状況でも国際法上は朝鮮を討つ道理はあるが、世間の人はそれを知らないから、隣国としての付き合いを軽視する事を責めて、これから仲良くしようという使節を送れば、きっと朝鮮はそれを軽蔑した振る舞いをするだろうし、使節を殺すのも間違いないあろうから、そうすれば世間の人も朝鮮を討つべきその罪を知るだろう。」、 「内乱を冀ふ心を外に移して、国を興すの遠略は勿論、旧政府の機会を失し無事を計て、終に天下を失ふ所以の確証を取て論じ候処」 大意:「内乱を望んでいる心を外に向けて、国を興す戦略は勿論、徳川幕府が機会を失して事なかれ主義の対応をした為に、ついに天下を失った理由を証拠として論じてきた」 (既にご紹介した大西郷全集第二巻の七五四~七五五頁で見られます) 元薩摩藩士別府晋介宛明治六年九月十二日付書簡から引用します。 『先日は北村参候て是非列行呉候様承候付いまだ発表に不相成候故、其節に至候はば、都合いたし可申旨返答いたし置申候。土州人も一人は死なせ置候はば跡が可宜と相考居申候。此節は第一憤発の種蒔に御座候故、跡の為に相成候はんと相考居申候。』 大意『先日、(別府晋介とともに朝鮮の内情視察に送り込まれた、元土佐藩の)北村(重頼)がやってきて、是非使節に加えてくれ、と言うので、その時期が来たら取り計らってやろう、と返事をした。土佐の人間も一人は死なせておいた方が後々良いだろう、と考えている。今は、憤激する種を蒔く時期なのだから、後の為に役立つだろう、と考えている。』 (これも、大西郷全集第二巻の七七一頁で見られます。) このように西郷隆盛自身が「朝鮮派兵の大義名分を作る為に使者を送る(自分が使者になる)」と言っていました。それも、西南戦争で西郷に最後まで従い、西郷が介錯を任せたほど近い関係にあった別府晋介に対しても… 他にも、例えば、「維新史の片鱗」(有馬純雄著・日本警察新聞社・1921年)のP268~269に… (↓) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/964354/153 ~~ 五、征韓論に就て西郷の説明 若し西郷先生の主張通りに成って愈々海外に兵を出すと云うことに成れば文官側としては伊地知さんと私とが文官側で随行することと定められて居た。 「お前は占領した地方地方の事を捌いて行く役に為るのぢや」 と先生は云って居られた、多分民政官見た様なもので有ったろう、 私たちは右の内命を受けてからは、毎日毎日公務の暇暇には満鮮の地図を広げ、地理の研究に没頭して居たが、(以下略) ~~ と、西郷隆盛から「占領した後に民政をお前がやれ」といわれたと書いてある、元薩摩藩士の回顧録とかもあり、「西郷の意図が、派兵の大義名分を作る事にあった」と理解している同時代の人間の発言の史料はたくさんありますが、何と言っても西郷本人がそう書簡に書いていた、というのが一番重要な根拠です。 西郷隆盛本人が、私的な手紙で、かつ別府晋介の様な近い人間にも征韓論語っていたのですから、それを西郷隆盛な“征韓論者”ではなかった。と言うのはいわゆるトンデモ話になってしまいます。勿論、西郷自身が『朝鮮と話をつけに行く』つもりじゃ無かったのも、彼自身が述べている事です。 『使節を暴殺に及候儀は、決て相違無之事』だから『戦は二段に相成』るのだし、話をつけるつもりなら、旧土佐藩士を使節に入れる事を『土州人も一人は死なせ置候はば跡が可宜』って言う訳が無いですから… 但し、政府内では“自分を談判の為に朝鮮に送れ”と言っていて、それが“朝鮮派兵のキッカケ”としてのもの、と言うのは板垣退助などへ語っていた事、ここまでは(トンデモ話を除けば)否定する人はまずいませんが、この時期の西郷隆盛の書簡には、(わざわざ死に急ぎはしない、と言っている部分もあるが)、全般的に“死”に対する言及が非常に多いです。ですので、体調の悪さなどから“自殺”願望があったのでは無いか、と言う説はあります。(西郷隆盛がかつて自殺未遂をしたのは良く知られています) 西郷隆盛は(絶対に自分が死ぬかは別にして)、自分を含む使節に対する侮辱を派兵のキッカケにしようとしていた、そこまでは疑問は無いが、西郷がそれを思いついたのは、実は『自らが使者に立つ』事、そっちの方が実は重要だったのでは無いか、だから、あれ程『自分が使者になる事に拘った』ので無いか、と言う説はあります。 その説でも、上記の様な西郷自身が言っていた事を否定する訳では勿論ありません。西郷隆盛は征韓論者です。ただ、征韓論を唱えた、より正確には“自分を派遣せよ”と唱えた西郷隆盛個人の“理由”と言うか“原因”は、西郷隆盛が“死に場所”を求めていた事にある、と言う事になります。 話題の性格上“証明”は最初から無理で、私個人は『確かにそうだったとしても、少しもおかしくはないが、さりとて、そうだ、とも断定し難い』ぐらいに考えていますが、一応ご紹介しておきます。

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当時、朝鮮は鎖国攘夷を続け、明治政府と国交を拒否し、日本人と交われば死刑という極端な排日にまで至りました。 それで板垣や江藤は、日本の居留民保護の名目で朝鮮に派兵を求めます。 しかし、西郷は拒否し、朝鮮国に開国を勧める遣韓使節として行こうとしました。 つまり西郷は、朝鮮を誠意を持って話せばわかると思っていたのです。 ただし、誠意を持って話し合いに来た俺を殺すなら、それは常軌を逸してるのだから、その時は大義名分はこちらにあるから正々堂々と軍を派遣すれば良いという考えでした。 ですから話し合いが不調なら戦争も辞さずという考えですが、問答無用の根っからの征韓論者とは、とても言えません。 しかし、朝鮮国が話せばわかるなどと思ってるのは西郷だけでした。 岩倉・大久保達は朝鮮は誠心誠意話せばわかるような相手だと思っていません。 行けば、西郷は必ず殺される。 西郷ほどの重鎮が殺されれば、日本としては出兵せざるを得なくなるが、まだ新政府が立ちあがったばかりで、戦争に労力を使いたくない。 と思い、それで徹底的に反対に回ったのです。 それは、本当の征韓論者である江藤らも、その点は同じだったようです。 むしろ、西郷が殺されてくれれば、晴れて出兵できることを期待して、使節派遣の賛成に回った節があります。 西郷は韓国では征韓論者で非難されてるようですが、むしろ感謝すべきだと思うのですけれど。

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