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武田信勝が武田滅亡時、勝頼によって逃がされて本能寺の変まで生き延びた場合、そ...

hei********さん

2018/11/612:52:24

武田信勝が武田滅亡時、勝頼によって逃がされて本能寺の変まで生き延びた場合、その後の武田信勝はどのような人生を歩むと思いますか?

つまるところは、勝頼のみ自害し、信勝は浅井万福丸の

ように落ち延び、織田に捕まることなく本能寺の変に至ったものとします。

個人的には、上杉か徳川と手を結ぶのだろう、とは思います。ただ、その後を想像するのが難しいですね。
徳川家臣になるのなら恐らく、血統も考慮され、江戸時代は10万石以上にはなったと思います。うまくいって甲斐一国あたりでしょうか。そして、徳川一門から妻を迎える、といった感じかなと思います。

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kaw********さん

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2018/11/715:59:18

勝頼の末弟である安田信清が上杉家に逃れていたことや、武田滅亡時に上杉軍は北信濃まで進出していたことから、信勝も上杉を頼った可能性はあります。

信長の死後に起きた天正壬午の乱では、上杉家は信濃守護の小笠原一族を前面に立てております。
信勝が上杉を頼っていた場合、天正壬午の乱では甲斐信濃への進行の旗印として、信勝も活躍したと思われます。
その場合、史実よりも武田旧臣への外交が発展し、真田、高坂(春日)、内藤ら北信濃や上野の旧臣たちが味方したかもしれませんね。

領地は、最も甲斐に近いあたりとなるのではないでしょうか?


徳川家臣となり、天正壬午の乱が史実とおりに進んだ場合ですが、最初は武田宗家の家督は勝千代のものですので、勝千代は幼くして亡くなりますので、武田宗家の家督は信勝が継ぐことになるものと思います。

その場合、甲斐の統治の旗印として使われることとなりますが、ケチで有名な家康が、いきなり10万石とはいかないでしょう。
関東に移封されて、やっと本多忠勝や井伊直政クラスで10万石前後です。
また、関東に移封されてからは、武田の家名に頼る必要もありませんので、それほど贔屓にはされないでしょう。

なお、武田旧臣で、家康存命時での出世頭は真田信幸の約10万石で、次は土屋忠直の2万石です。
徳川譜代筆頭で老中を排出する酒井家でさえ、江戸時代では15万石です。
その後の小田原の戦いや、関ヶ原での活躍にもよりますが、頑張って10万~5万石ではないでしょうか?

  • 質問者

    hei********さん

    2018/11/720:59:22

    回答ありがとうございます。
    信勝が徳川家臣になった場合ですが、10万石は最大限うまくいったら、くらいですか。
    家督については同意見です。

    そして、小田原攻めと関ヶ原、大坂の陣で信勝はどのような立場になると考えられますか?
    個人的には、小田原攻めは井伊、本多、酒井、榊原、大久保、鳥居、平岩といった先手7人のうち、甲州勢の多い平岩の副将格になるか、平岩の代わりに信勝が先手7人の1人になるか、という形になると思います。
    関ヶ原は秀忠軍の中にいるものと想定されます。
    大坂の陣は5〜10万石の大名と過程すれば、酒井家次や本多忠朝がちょうどこの時5万石で複数大名を指揮下にしているので、同程度の部隊の指揮官になるのでは、と思います。諏訪あたりが指揮下の大名でしょうか。

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one********さん

2018/11/809:22:05

私も、↓jun********さんと同じ考えです。

祖父の武田信虎を頼るのが一番シックリします。

また、↓kaw********さんの回答にある「天正壬午の乱」という言葉が独り歩きしているのが気懸かりです。

この言葉は、平山優氏がその著書の中で呼称されているだけです。

実際には、「壬午ノ役」、「壬午ノ合戦」、「甲斐一乱」と呼ばれていたものです。

xyz********さん

2018/11/613:25:50

信勝死後の武田家の名跡は従弟の穴山勝千代(武田信治)が継ぎ、信治早世後は徳川家康の五男・武田信吉がその名跡を継ぎ常陸国水戸25万石の城主になる。武田氏祖は源義清(武田冠者)が常陸国那珂郡武田郷を本貫となった時に武田姓を名乗ったのが始まりとされている。
武田信吉も21歳で死去。水戸藩は異母弟の頼将(頼宣)が入り、頼将が駿府に移封の後は、同じく異母弟の頼房が入部し、水戸徳川家の祖となる。
武田の嫡流は信玄の次男竜芳の子武田信道が伊豆武田家と見なされ、紆余曲折の末にこの家系は徳川幕府高家として存続した。

武田勝頼三男の武田勝親は鎌倉へ落ち延びたという。その後、『甲斐国志』『系図纂要』によれば摂津国尼崎藤田村へ移り、「善悦」と号して浄土真宗本願寺派の僧となり天和2年(1682年)に享年103で死去したとしている。

ban********さん

2018/11/613:24:11

今川氏真は、大名としての今川家が滅亡したあとも生き残り、北条に亡命したあと家康を頼り、京都に登って文化人として活躍し、のちに幕府に仕えて高家の家柄として存続します。石高は千石ですが、高家ですから四位であり、並の大名より格上です。
徳川は、没落した名家の子孫を探してきて保護するのが大好きですが、その処遇は、大抵この高家です。武田信勝が生き残っても、扱いとしてはこのくらいであろうと思われます。
今川氏真は、武将としてはダメでしたが、蹴鞠や和歌などの教養が深く、京都の公家のあいだにも人気者で、そのため外交的にも使用価値があった人物です。
信勝にどんだけの器量があったか分かりませんけど。独立大名に返り咲かせるというのは得策ではないでしょう。武田の旧臣が集まって大名になったら、またいつ敵対勢力になるか分からんわけですから。
それより、信勝は少ない石高で政治顧問として使って、武田の家臣団は徳川の配下として再編成したほうが安全です。
家康は信玄を尊敬していたといいますけど、それは武田家が滅んじゃったからであって。息子の一人に武田の家督を継がせて「武田信吉」と名乗らせたりしてますけど、これは徳川が旧武田勢力を上手く吸収合併するための手段に過ぎません。本当に武田の正統な子孫が生き残ってたら、逆に邪魔だったかも知れません。少なくとも、易々と大名に返り咲かせてやるほど、家康はお人よしではないでしょう。

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jun********さん

2018/11/613:20:59

武田信勝が落ち延びるとしたら、その行く先は、
かつて、信玄に追放され、京都で隠棲している、
祖父の武田信虎の許である可能性が高いでしょう。
祖父と共に、京で暮らし、そのまま大人しく世を終えるか、
あるいは信長の許に出仕して、武田攻めに加わり、
勝頼滅亡後、幾らかの領地を与えられ、
武田家を再興したかもしれません。

徳川や上杉の許に行く可能性は、低いと思いますよ。
長く敵対していた相手に投降しても、良いように利用されるだけです。
逃げるなら、一番は危機に瀕している今川に身を寄せ、
共に信玄と戦うか、あるいは元の同盟者である北条氏に頼る、
と言われてた選択肢の方が、現実的です。
あるいは、この時点では、敵対していない織田家の方が、
まだ可能性があります。

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