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澶淵の盟についてです。

nag********さん

2018/11/2817:01:57

澶淵の盟についてです。

この条約は、

1.戦争を防ぐことで交易が促進されたから正しい判断だった。
2.賠償金を毎年支出することで国庫が空になった上に、戦闘をお金で逃げる事を覚えたせいで軍事力も影響力も下がり周辺諸国のカモになったのだから間違った判断だった。

とする二つの見方がありますが、どちらが正しいと思いますか?

ちなみに、

1攻めてきた契丹は補給線が伸びきっていて、戦闘になれば殲滅されるのは必然だった。
2契丹にあげたお金は、契丹の商工業が発展することでOADのような形で帰ってきた。
3毎年の賠償金のせいで、国庫は破綻寸前だった。

と言う見解がされているそうです。

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shi********さん

2018/11/2823:14:41

二つの見方がありますが、
どちらが正しいと思いますか?

【1.戦争を防ぐことで交易が
促進されたから正しい判断だった】
だと思います。

漢民族の農民兵では基本的にある程度
統一した遊牧民族には勝てないと思い
ます。

北宋が一回や二回、契丹を撃退しても
最終的には征服されるだけだと思いま
す。

また、北宋が軍事に力を入れても農民
反乱で滅亡を早めるだけだと思います

そもそも、後の漢民族王朝である明も
モンゴルに対して朝貢という利益を与
える事で宥めていました。

明とモンゴルは明の産物と馬を
交換する馬市を行っていました。

明は馬をさほど必要としていませんで
したが、あくまで平和の代金として買
い取っていました。

明はモンゴルからやってくる使者
一人ごとに報奨金を与えていました

その為、オイラトのエセンは使節の人
数を増やし、また役に立たない馬も交
易の中に含めるなどして交易の利益の
増大を図りました。

またモンゴルのダヤン•アルタンは
馬市の回数をもっと増やすように
求めました。

このような要求は明にとって基本的に
不利益なので、拒否しようとしました
が、その時にはモンゴル•オイラト達
は明の領内に侵攻して、武力を用いて
自分達の要求を通しました。

土木の変や庚戌の変はこう言った事に
基づいており、明を滅ぼそうと考えて
いたわけではないと言われています

その後のモンゴル勢力は内部
抗争により勢力を減退させました。

また、明は満州の女真族に
対しても同じ手段を取っていました。

明は女真族のそれぞれの部族長一人一
人に対して朝貢の権利を認める文書を
発行する事で、互いの間で文書の奪い
合いを目的とした対立を醸成し、抗争
を起こさせる事で一致団結して明に反
抗することを封じていました。

しかし万暦期の遼東司令官李成梁の
不手際によりヌルハチの台頭を見逃
し、女真の統一が為されました。

そして、ヌルハチは天命3年(1618年)
に「七大恨」と呼ばれる檄文を掲げ、
明を攻めることを決定しました。

明では天啓7年(1627年)•崇禎元年
(1628年)に陝西で起きた大旱魃を
きっかけに反乱が頻発しましたが、
朝廷は満州族対策に追われて満足
に反乱対策を行えませんでした。

その後、明は1644年に
農民反乱で滅びました。

つまり、明も朝貢という利益を与える
事で異民族を宥める事が出来なくなっ
てから暫くして滅亡しました。

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