ここから本文です

上杉謙信の領土ですが わかりにくいです 1566年ですが 下野の国に行軍 の...

ta1********さん

2018/12/1505:58:16

上杉謙信の領土ですが
わかりにくいです
1566年ですが

下野の国に行軍 のち常陸の国に出兵
謙信が攻略した小田城を奪取した
この時点での領土どれくらい持ってたのですか

閲覧数:
188
回答数:
2
お礼:
25枚

違反報告

ベストアンサーに選ばれた回答

hir********さん

2018/12/1523:03:21

1566年当時の上杉謙信の領土は、越後本国と越中東部、上野国くらいです。

ただしその前年の1565年には、武田信玄が上野国西部に侵攻を開始。
そして1566年の第5次関東侵攻終了には、武田信玄が上野国西部の要所である長野業盛の箕輪城を陥落させて長野氏を滅亡に追い込んでいました。
ですので上野国西部という半国は武田信玄の領土となってしまいます。


・他の方への質問について

>じゃ下野の国を超えて なぜ常陸の国に攻めれるのですか

上杉謙信は、基本的に関東の国衆と呼ばれる中小の勢力を味方につけて関東侵攻を行っていたのです。
上杉氏の直接の家臣では無いので上杉謙信の領土とは言えませんが、まぁ協力勢力・同盟勢力と考えれば良いと思います。
ですのでこれらは上杉謙信の勢力圏には含まれます。
上杉謙信はその味方である勢力の勢力圏を通って下野国を超えて 常陸国まで攻め込むことができたのです。

ただ、この協力勢力・同盟勢力があてにならない、信用できない面が上杉謙信にとっては頭の痛い問題であったのです。
上杉謙信が関東侵攻を行えば上杉氏に味方するけれども、上杉謙信が帰国して北条氏の反撃が始まると、北条氏に降伏して北条氏の味方になってしまうという事の繰り返しが度々起こっていたのです。

それでもあくまでも上杉謙信に味方しようとした勢力もありますが、やはり越後と関東を行ったり来たりするという弱点もあって、上杉謙信の救援が間に合わずに北条氏に次々とつぶされたり養子を送り込まれて乗っ取られたりして、やがて上杉謙信は信頼できる味方勢力を失って行ってしまいました。

また、
第5次関東侵攻は上杉謙信にとっては痛恨の結果となるのでした。


前年の永禄8年(1565年)の11月から12月位に三国峠を越えて関東出兵が開始されました。
これは第5次関東侵攻と言われています。

ちなみに上杉謙信の関東侵攻は、前年の11月から12月位に越境して年内は上野国に滞在して、翌年1月から本格的な攻勢を行い、4月頃に越後に帰国するのがパターンです。(一部例外もありますが)

この第5次関東侵攻において、

2月頃、

上杉謙信は関東を横断して常陸国の小田城の小田氏治を攻めました。
小田氏治は同じ常陸国の佐竹氏と対立関係にあり、佐竹氏は反北条氏の有力な勢力でした。
ですので、佐竹氏らの求めに応じて小田氏治を攻めた訳です。
そして2月中旬には小田城は開城して小田氏治は降伏しました。

そしてこの後、上杉謙信軍は更に南下して占領地の慰撫を行いながら下総国に攻め入りました。
下総には北条方の千葉胤富が勢力を張っていて、その家臣である原胤貞が当時は臼井城を本拠地としていました。

3月、

上杉謙信軍は15000の大軍でこの原胤貞が守備する臼井城を包囲しました。
臼井城側は援軍を含めても2000程だったといわれています。


さて、ここからは戦記物に基づくものとなりますが「臼井城の戦い」を紹介します。

いよいよ上杉軍の猛攻が開始されると
3/20頃、臼井城は本丸と濠一重を残すだけとなり落城寸前の状態となりました。
ここにおいて城主の原胤貞は白井胤治に指揮権を委譲しました。

それを受けて白井胤治は占いを行い、
「敵の陣にはどこも殺気が立ち上り、対して味方側には幸運の気が立ち登っている。お味方の勝利間違いなし。」
と味方の兵士達を鼓舞して士気をあげさせました。

3/26、
上杉謙信は「こんな小城などとっとと落としてしまえ!」と号令し、
ついに上杉軍の総攻撃が始まりました。

ところがここで、白井胤治は意表をついて臼井城城門を全開にさせて逆襲を仕掛けさせました。
第1陣が突撃し、疲れが見えるとすかさずに第2陣を投入し、この第2陣が切り開いた錐で開けた様なわずかな血路に第3陣が突撃し、謙信の本陣へと迫る勢いでした。

この第3陣に加わっていたのが北条氏から援軍と派遣されていた松田康郷でした。
彼は北条氏の重臣の松田憲秀とは従兄弟の関係でした。
その松田康郷は朱色の甲冑、具足という赤備えの装備で戦場に現れ、漆黒の巨馬にまたがって先頭を走り、向かい来る敵兵を長刀で斬り殺し、刃がこぼれて役に立たなくなると樫(かし)の棒で馬上の敵を打ち倒し、素手で敵兵の首をねじ切るという大活躍を見せました。
これにより、謙信はその日は臼井城の攻撃を中止して退却しました。

謙信は、全身赤備えの装備の松田康郷の戦ぶりに、
「岩舟山には赤鬼の住むと聞いていたが、正に彼の事であったか。」
と感嘆したと言われています。

(岩舟山は栃木県栃木市にある日本三大霊山の1つであり、赤鬼が住むとの伝承がありました。)


そしてその翌日、

上杉謙信は、前日の戦いで勢いに乗った臼井城側が今日も突撃して来るだろうと待ち構えていましたが、昼過ぎになっても臼井城側にその気配がありません。

ついに焦れた謙信は臼井城への総攻撃を命じ、そしてその先鋒軍は臼井城の大手門に迫りました。

ところがそれを見越していたかの様に、白井胤治の命令で臼井城の城壁が崩された為に1度に数百人の上杉軍兵士らが城壁の下敷きとなり、上杉軍は大混乱となりました。
謙信は全軍の撤退を命じますが、白井胤治はこれを勝機と見てそれを許さず城兵に総攻撃を命じました。
この結果、上杉軍は雪崩を打って総崩れとなり、結局は謙信は臼井城攻略をあきらめて撤退しました。

北条方の記録では上杉の死傷者は5千人以上と語られ、
あまりの惨敗の為か『謙信公御年譜』(謙信の伝記)には記録が見当たりません。
上杉謙信の生涯最大の敗戦と言われています。

一方、松田康郷はその戦いぶりから、
「鬼孫太郎」「ねじ切り太郎」「松田の赤鬼」などの異名が知れ渡たる事となりました。


以上が白井胤治の活躍をする「臼井城の戦い」の概要となります。

ただし、これらは信憑性が疑問視もされています。
実は白井胤治は実在が疑われている人物でもあります。
彼の名が登場するのは

『北条記(相州兵乱記)』
『関八州古戦録』)

といった、いわゆる戦記物(真田十勇士みたいなイメージ)なのです。

そして最近のは研究では、北条氏と千葉氏の援軍が来着した為に上杉軍が敗北したとの説も唱えられています。

しかし、信頼性があると思われる資料でも、上杉謙信軍が臼井城の総攻撃に失敗した事自体は事実であるという説が有力です。
また、大損害を受けたのは、謙信直衛の上杉軍では無く、攻城戦に参加していた里見氏と酒井氏(土気酒井氏)の軍であるとも推察されています。
この2氏の軍の損害が大きくその陣内の人ががまばらになってしまった為に、上杉軍の一部がその場所に配置転換されたという記述もあるそうです。

更に総攻撃失敗後もしばらく包囲していたが足利義昭よりの書状が届き、幕府再興の協力を求められたので撤退を決断したとの説もあります。
(足利義昭はまだ将軍では無く、信長に奉じられて上洛するのは約3年後です。)



また上杉謙信が大敗した事は、この後の関東地方の諸勢力の動向からもの信憑性があると思われます。

「臼井城の戦い」は、その戦い自体もさることながら、その後の関東情勢に大きな影響をもたらした事が更に重要であると考えられます。

謙信はパターン通りに4月に越後へと帰国しましたが、その後に関東地方で上杉謙信に味方していた反北条系の諸勢力が雪崩現象を起こして大挙して北条氏陣営に寝返るという事態になってしまったのです。

確認できるだけで、

(5月)
常陸の小田氏、下総の結城氏、下野の小山氏・宇都宮氏

(8月)
武蔵の忍城の成田氏、上野の横瀬(由良)氏、下野の皆川氏

(11月)
上野の富岡氏、
(年末~翌年⦅1567⦆
上野の館林長尾氏、下総の関宿城の簗田氏・栗林城の野田氏
・森屋相馬氏・ 上総の土気酒井氏

らが北条氏へ従属。

更に翌年永禄10年(1567)

(2月)
下野国の唐沢山城の佐野昌綱が再び北条方へ寝返る。(3月降伏)

(3月)
なんと謙信の重臣で、関東の支配の先兵として上野国の厩橋城に配置されていた北条(きたじょう)高広までが北条氏へ寝返ってしまったのです。

そして関東の反北条の有力勢力の佐竹氏が北条と和議を締結してしまいました。

約1年後には佐竹氏、宇都宮氏、簗田氏は上杉陣営に復活しますが、
今度は下野の佐野氏が北条氏へ寝返りました。
これにより上杉氏の関東における直轄地は上野の沼田城周辺地域のみとなってしまう事態となりました。

そしてこの後の謙信の関東侵攻は、孤立状態にある味方の上杉陣営の諸勢力への救援さえもままらなくなって行き、関東侵攻の成果がほぼ上がらないジリ貧状態に陥っていく事になるのです。

このように「臼井城の戦い」は関東における上杉謙信の威信・信頼の失墜を招いた戦いとなったと言えるでしょうね。

その後

(4月~ )
上杉謙信が北条高広より厩橋城を奪還成功。

その後
上野・武蔵・常陸・下野・下総を転戦。

(10月)
佐野昌綱が再び北条方へ寝返る。

結局、転戦を蹴り返したものの関東の上杉謙信の勢力圏は
上野国沼田・桐生と武蔵羽生(広田直繁)のみとなる結果に。


永禄11年(1568)

3月
謙信が越中出兵。
越中一向一揆と椎名康胤が武田信玄と通じた為に攻撃。

6月 武田信玄が信濃国の上杉方の飯山城を包囲。
7月~
・本庄繁長が謙信に叛乱。
・蘆名盛氏軍が越後菅名へ侵攻。
・北条軍が上杉方の沼田城を攻撃。

信玄はこの時期には暗躍ぶりが全開状態です。

10月 謙信は本庄繁長の叛乱鎮圧へ向かう。

12月 信玄が駿河今川領へ侵攻。
・今川氏真が掛川城へ逃亡。


永禄12年(1569)

1月~4月 第二次薩堆峠の戦い
北条軍が駿河侵攻。武田対北条。

2月

北条氏康と上杉謙信の間に
「 越相同盟」が基本同意。(締結は6月)



謙信は寝返った勢力の再寝返りを許してしまうから勢力圏が不安定なのかも?

  • 質問者

    ta1********さん

    2018/12/1604:39:07

    ということは謙信の領土は
    不安定なもので
    越後と上野の東側は安定
    越中の一部
    武蔵の一部 下野 一部のあたりを
    とったりとられたり
    してたということですか
    同盟者は 佐竹 北条に攻められる勢力
    ということでしょうか

  • その他の返信(4件)を表示

返信を取り消しますが
よろしいですか?

  • 取り消す
  • キャンセル

ベストアンサー以外の回答

1〜1件/1件中

gol********さん

2018/12/1509:55:14

1511年に関東管領に就任要請され、上杉の家督を継ぎ長尾から上杉に改名したのでは。。。

ご質問はそれ以後の関東派兵。であれば「管領職」としての関東秩序維持が目的の出兵ではないでしょうか?ですから領地はあくまでも越後のみだと思いましたが。

「義」「大義名分」を重んじた彼の関東への領土野心はなかったと思いますけど、違うかな????

*彼の関東や信濃、奥羽への出兵は「助けて~」と依頼をしてきた地侍からの要請に応じたもの、と理解しています。

また北陸路への進出は近畿における信長の旧権威への挑戦に対して、天子様からの要請に感涙感激して始めたものと理解してますが違いましたかね。

返信を取り消しますが
よろしいですか?

  • 取り消す
  • キャンセル

みんなで作る知恵袋 悩みや疑問、なんでも気軽にきいちゃおう!

Q&Aをキーワードで検索:

Yahoo! JAPANは、回答に記載された内容の信ぴょう性、正確性を保証しておりません。
お客様自身の責任と判断で、ご利用ください。
本文はここまでです このページの先頭へ

「追加する」ボタンを押してください。

閉じる

※知恵コレクションに追加された質問は選択されたID/ニックネームのMy知恵袋で確認できます。

不適切な投稿でないことを報告しました。

閉じる