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飛鳥時代、宗教対立が日本にありましたが、それが物部氏と蘇我氏です。物部氏は日...

manatsu4488さん

2018/12/1613:51:46

飛鳥時代、宗教対立が日本にありましたが、それが物部氏と蘇我氏です。物部氏は日本神道、蘇我氏は仏教で対立しました。どうして新参の仏教を擁護する蘇我氏が勝ったのか?原因が分からないです

。どうかご教授をよろしくお願いいたします。

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onb********さん

2018/12/1616:26:48

渋川廃寺は、当初物部の氏寺かも知れないと大注目を集めましたが、再び発掘調査が行われ、渋川寺の建立時期が7世紀前半であると判明してます

物部宗家の滅亡が587年ですから、物部が滅んだ後に建立されている訳です

その為注目されなくなり、物部も仏教を受け入れていたという説は消滅してます


物部氏と蘇我氏の争いは、1に権力闘争であり、2に宗教。
宗教は闘争の道具につかったと見て良いです

物部の守屋が、体調が悪いのは蘇我氏が信奉する仏教のせいだから、仏教を遠ざけて欲しいと天皇に申し出てます。
また、物部守屋は、大神神社で尼僧を裸にして鞭を打ったりしてます

仏教は蘇我氏の象徴なので目の敵にしたと言ったほうが良いでしょう


蘇我馬子の妻は物部の守屋の妹でした
つまり政略結婚であり、物部は蘇我氏が強大化して対立が戦いに繋がりかねないと予測していたと思われます

物部守屋の敗死後、蘇我馬子の妻が守屋の妹である為、資産の相続を主張し、蘇我氏が奪い取ってます。

物部の敗因は物部守屋が弓の名手で、守屋自身が邸宅の木に登って弓を射かけていたからです。
この弓を、蘇我市の4王子は恐れており、苦戦していた要因です
が、これが裏目で、守屋自身が蘇我氏の手勢が放った矢にあたり死亡

当主を失った物部は統率が取れなくなり、四散して滅んでます

朝鮮出兵の主力で大和朝廷最強だった軍事豪族の最後です



物部の出自は扶余(ふよ:鹿の意味)で、渡来人です
扶余は鹿をトーテムとする濊貊(わいはく)と呼ばれる民族の一つです
物部は
扶余の神官家だったと言われてます

扶余は満蒙の騎馬民族で、扶余国(紀元前4世紀 ~)が東に遷都して東扶余国 (494年滅亡)。末期は、普の属国として王子を人質に取られてました。

後裔が、高句麗や百済(南扶余)、渤海です

物部創建の鹿島神宮や香取神宮は、鹿が神獣ですし、分祀の春日大社も鹿が神獣です。
古来から鹿は神獣とされ、傷つけると処刑されてたほどです
日本の神社で鹿が重視される理由は、物部が扶余出自であることから見て取れます


また、物部氏の氏神である石上神宮は、伊勢神宮と並ぶ日本最古の「神宮」です
武器庫でもあり、百済から神功皇后に送られたとされる七支刀の保管場所です
物部の位置づけの高さと、神道に与えた影響の大きさが分かります

布都御魂(フツノミタマ)という剣の神が祭神としてますが、神社に伝わるフツ(フル)の伝承は、古朝鮮の先祖神フツ(フル)と同じです

石上神宮は、岡山の石上布都魂神社(備前国一之宮)から剣とともに遷移したとされています

従って、物部は、元々岡山で勢力を持っていた豪族と思われます


蘇我氏を討った、中臣氏(藤原氏)は、鹿島神宮の氏子が出自だと言い、物部の祭祀を受け継ぎ、荒廃した石上神宮に代えて、鹿島神宮と香取神宮を神宮にしてます

鎌足の子の藤原四兄弟は、徹底した神道絶対派であり、仏教派の聖徳太子の死後は、仏教に傾倒する氏族を片っ端から皆殺しにしてます

質問した人からのコメント

2018/12/16 18:18:49

丁寧な回答をありがとうございました。感謝いたします。

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shi********さん

2018/12/1617:45:17

物部と、蘇我はもとから政敵ですから宗教対立は方便。

戦う口実に過ぎないんです。

その証拠に官軍率いて守屋を倒したら、蘇我は妻の相続権を行使して財産を独り占めにしてますよ。

sca********さん

2018/12/1615:26:50

崇仏か廃仏かをめぐる物部vs蘇我の戦いは、最終的には戦争によって決着したのですが、この戦争の勝ち負けについては総大将である物部守屋が矢に当たって早々に戦死したことが物部軍敗退の最大の要因です。

この戦い(丁未の乱)が起こるまえから、物部と蘇我のあいだでは政治的な闘争が繰り広げられ、蘇我がやや有利ながら一進一退をくりかえしていました。
最終的な決定権をもつのは天皇ですが、敏達天皇の意見は揺れました。敏達天皇のあとをついだ用明天皇ははっきりと崇仏派でしたが在位わずか2年で天然痘にかかって亡くなりました。

用明天皇の跡目を廃仏派にしたい物部守屋は穴穂部皇子(敏達天皇、用明天皇の弟)を推しますが、穴穂部皇子は蘇我馬子に暗殺されてしまいます。
このあとに丁未の乱が起こり、すべての決着がつくわけです。

さて、仏教はインドで生まれ、日本には朝鮮半島を経由して伝えられました。当時、半島や大陸からやってくるものは先端技術であり、最新の知識であり、きらびやかな文化でもありました。金色に輝く仏像はそれだけでも魅力的であったでしょう。

そのうえ、仏教には「教え」がありました。
神道は自然を拝むだけのものですが、「教え」はありません(だから神「教」ではなく神「道」なのです)。
いっぽう、仏教には行きていく上で直面する悩みや苦しみ、あるいは死への恐怖から人々を救ってくれる「教え」があります。

この差は決定的です。
日本人は仏教がやってくるまで「思想」というものに触れたことがありません。仏教によって、はじめて抽象的な考えに触れることができました。
人間としての根源的な疑問にはなにも回答してくれない神道だけでは、日本人はやっていけなかったでしょう。人は生きていく上で、かならず仏教のような「教え」や「思想」が必要になります。

だから、政治闘争や丁未の乱の行方にかかわらず、かならず仏教は受け入れることになったはずです。

pin********さん

2018/12/1615:00:32

「大伴氏」も「物部氏」も「蘇我氏」も「藤原氏」も、基本的には「最高権力者集団の手下、官僚です」。
権力者間で後継者問題などで対立すると、其の手下の官僚も対立すると言う構図です。
「大伴が物部に、物部が蘇我に、蘇我が藤原に潰されていった」と言うのが大きな流れです。
質問者の方の「物部VS蘇我」の所ですが、「最高権力者の欽明は、後発の蘇我氏に仏教の試し礼拝をさせます、これは蘇我を信認しているという事で、後押し充分です」。
「物部」は、これが気に入らず、「稲目と御輿が対立し、子の馬子と守屋の代で内戦に成っています」。
「物部」としては、「仏教の受け入れでは、蘇我に頭を越されるは、後継者問題では穴穂部皇子を立てるが、蘇我に抵抗されるはで、今まで最高権力者を支える官僚の筆頭であったのに、蘇我に持っていかれそう!」と言うのが真相です。
という事で、一般に言われている「内政面での宗教問題(仏教の受け入れ)」が対立の要因と言われていますが、全く無かったとは言いませんが、実際には、二義的、三義的要因です。
「物部」の拠点である「渋川」には「渋川廃寺」と言うのがあり、物部も先進の仏教を実際に受け入れています。

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