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関ヶ原の戦いで、西軍の初期の顔ぶれには小早川秀秋・宇喜多秀家・織田秀信など若...

pea********さん

2018/12/3006:50:51

関ヶ原の戦いで、西軍の初期の顔ぶれには小早川秀秋・宇喜多秀家・織田秀信など若い人が目立ちます。

秀頼は新入社員みたいなものです。宇喜多らの姿勢は新人を助けてやろうという若者らしい態度に見えます。

一方、生意気だとイジメてくる人が出てくるのも分かります。
特に家康は「忍」の武将で、自身の人質・妻子の切腹・秀吉への臣従・関東への国替え等暴れたくなる気持ちも分かります。

こういった律儀者から苦労のしすぎでタヌキへと変質し、社長の息子である新人をいじめ始めた家康と、新人をかわいがるどこにでもいるような青年社員の戦いが関ヶ原の戦いでしょうか。

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iga********さん

2018/12/3017:59:31

1.関ヶ原の戦いの発端
関ヶ原の戦いの発端となる出来事は、加藤清正・福島正則・黒田長政・藤堂高虎・細川忠興・蜂須賀家政・浅野幸長の七将が石田三成を襲撃した事件です。そして、徳川家康・毛利輝元・上杉景勝・秀吉正室北政所らによる仲裁の結果、三成は奉行職を解かれ居城の佐和山城に蟄居となります。七将の襲撃は、秀吉が定めた武力による政治問題の解決を禁じた規則への違反でした。しかし、家康はこれをとがめず、三成のみを不当に処分しました。このころすでに家康は七将をその影響下に置いていたことがうかがわれます。

2.家康の横暴
秀吉の死後、家康は、他大名と無許可で姻戚を結ぶ、独断で知行の加増や減俸を行う、北政所を追い出して勝手に大坂城西の丸に入居する、豊臣政権が持つ人質を勝手に返還してしまうなど、豊臣政権が定めた規則を次々に破ります。さらに、豊臣恩顧の最大大名である前田家に謀反の疑いをかけ、前田家討伐を計画します。

3.三成の決断
佐和山城に蟄居していた三成は、このような動向に対して、このままでは豊臣政権が徳川家康に乗っ取られると考え、打倒家康を決断する。このころ家康は会津の上杉家に謀反の疑いをかけ、上杉討伐を計画する。家康は諸大名を引き連れ、江戸に到着する。このとき、上杉景勝・毛利輝元・宇喜多秀家・前田玄以・増田長盛・長束正家・小西行長・大谷吉継・石田三成らが打倒家康のために決起した。

4.西軍の総大将
西軍の総大将は、本来なら豊臣秀頼がなるべきなのだが、秀頼の母親の淀君は、この紛争はあくまで豊臣政権内の内紛であると主張して、中立の立場を取った。したがって、総大将は秀頼以外の大名がなることになった。三成は元奉行職で、地位が低かったために総大将にはならず、大老職の毛利輝元が総大将になった。

5.足並みがそろわない西軍
打倒家康のために立ち上がった西軍だが、積極的に参加した大名はわずかで、多くの大名は行ががり上、仕方なく西軍に加わった大名だった。そのため、西軍は戦う前から足並みがそろわなかった。

6.宇喜多秀家
西軍の副大将。備前岡山城主。57万石余りを領していた。幼くして宇喜多家の家督を継ぐ。幼い頃より秀吉にかわいがられ、豊臣に対する忠誠心が高い。また、三成が七将に襲撃された際は佐竹義信とともに三成を救出してる。関ヶ原には1万7千の大軍を率いて参戦し、奮戦した。

7.小早川秀秋
秀吉の甥。秀吉の親族として豊臣政権では重用された。小早川家に養子に入る。関ヶ原には1万5千の大軍を率いて西軍として参加するが、戦いのさなかに東軍に寝がえり、東軍勝利のきっかけを作った。

8.織田秀信
信長の孫。岐阜城主。家康の会津征伐に参加するために支度をしていたが、それが遅れていたところ、三成から、「戦勝のあかつきには美濃・尾張の2ヶ国を宛行う」との条件で勧誘されて西軍に参加した。東軍の池田輝政・福島正則らを木曽川で迎撃したが、敗れ、岐阜城に逃げ帰る。その後、岐阜城で激戦するが敗れた。

9.まとめ
東軍は家康を中心に団結力が強かったです。一方、西軍は副将宇喜多秀家、首謀者石田三成、大谷吉嗣など、積極的に動き、奮戦した大名もいましたが、総大将毛利輝元が関ヶ原に出陣しないなど、まとまりがなく、戦いの成り行きを見る大名が多く、小早川秀秋のように西軍を裏切る大名さえいました。西軍には強力なリーダーがいませんでした。それが敗因だったと思います。

質問した人からのコメント

2019/1/3 22:15:18

みなさま、回答ありがとうございました。
やはり、豊臣秀頼を含め、前田利家の死後は家康に見劣りする武将ばかりですね。

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pro********さん

2019/1/122:21:15

違います。

関ヶ原の戦いとは、単に悪魔崇拝者同士の争いです。

真に理解するには、彼らがどのような思想や考えを重視し、いわば、どの神(悪魔)を味方につけて判断や行動の源泉にしていたのかを知らなければ何も見えてきません。

先祖代々、悪魔崇拝の思想を持つ者が日本を支配してきたという事実が根底にあることを知らなければ、表面しかみえてきません。

まさに木を見て森を見ずの状態です。

その証拠として、分かりやすい一例ですが、例えば戦国武将は自分達の家柄を表すために家紋を使いますよね。シンボルマークですから、相当熟慮し、思い入れのあるものと考えられます。その家紋に、島津家は丸に十文字紋(太陽十字)を採用しており、これはどこからどう見てもドルイド教徒であることを示しています。

これは氷山の一角にすぎません。

教科書通りの一般人に説明するための日本史だと、真実が見えてきません。

悪魔崇拝の視点からでないと何一つ分かりません。

そして、悪魔崇拝の視点から世の中をみると、関ヶ原の戦いは、源平合戦と全く同じ構造であることがみてとれるのです。つまり、出雲族と秦氏の戦いです。
このくだらない戦いを何千年とかけて行っています。

ちなみにですが、現在の内閣は豊臣家の桐紋を採用してますが、これは出雲族であることを表しています。

肝心な情報として、悪魔崇拝者は、くだらない争いを続けていますが、結局皆「ルシファー」という悪魔のトップを崇めており、そのトップの悪魔を召喚できるのが天皇というわけです。何に対抗して悪魔崇拝を行うのかというと、人類を創造した聖書の神ヤハウェです。本物の神様が人類をあまりにも愛しているので、悪魔がそれに嫉妬し、人間を貶めたいと考え、色々と行い、人類を堕落させてきました。

現内閣の安倍晋三や稲田朋美らが、やたらと憲法9条改正にしがみつくのもルシファーを神とする「生長の家」という悪魔教に毒されているからです。「生長の家」は「戦争こそが人類の霊魂進化にとって最高の宗教的行事」と信じ、つまり、人類同士が争うことで大量の死者が出て、その分だけ死んだ人間を悪魔に生贄として捧げることができるから「最高」ということです。徹底的に聖書に反逆することを教理とするわけです。聖書の逆を極めることで、本物の神様が愛している人間ひとりひとりが幸せに生きることができないようにしたいのです。

長くなりましたが、結局、関ヶ原の戦いは秦氏と出雲族の戦いです。

ツイッターでも沢山情報が出ているようなので参考になさってください。


・RAPT×読者対談〈第38弾〉
関ヶ原の戦いも明治維新も第二次世界大戦もすべては源平合戦だった。
http://rapt-neo.com/?p=32805

・日本の歴代首相も天皇もみんな古代ケルトの悪魔教「ドルイド教」の僧侶の末裔です。
http://rapt-neo.com/?p=32234

・RAPT×読者対談〈第122弾〉現代日本の支配構造は、安土桃山時代と全く同じ。
http://rapt-neo.com/?p=41014

yuk********さん

2018/12/3013:10:04

なんか?
違った視点ですね!

関ヶ原の合戦でしょ?

史上最大の合戦が、どうやったら?

こんなところになってしまうのでしょうか?(  ̄▽ ̄)

現代の感覚の視点ですかねっ?(|| ゜Д゜)

その時代背景の考えの方がいいと思います。

ohx********さん

2018/12/3007:07:00

現代の視線で見過ぎです。当時は家督相続するのが当たり前なので、若い当主も珍しくありません。むしろ、医療技術が発達してないので高齢者が少なく、家康の様に長生きして、天下を狙う者は珍しいのです。
新人を虐めたいだけの器量の小さい人物に天下人は務まりません。

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