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仏教の究極の真理である「空」について質問します。 龍樹を始めとする中観派の人...

warehauchuさん

2019/1/711:41:08

仏教の究極の真理である「空」について質問します。
龍樹を始めとする中観派の人達は「空」をあらゆる存在は相互に依存しているから、独立して存在するものはないと説明していますが、この説明

に納得出来ますか?

私は酸素がなければ5分も生きられません。だからといって実体ではないとは思えません。

本当はあらゆる現象は意識の中で瞬間的に生じて、瞬間的に滅しています。これを唯識と言います。そもそも始めっから物質世界なんて存在しないのです。全ては意識だから実体ではないのですよね?

補足回答者の皆様、ご回答ありがとうございました。
空や唯識といった問題はともすれすれ哲学的な議論になりがちですが、私は仏法は思考を停止して、ありのままを観ることだと思っていますので、ベストアンサー を決めかねています。
今回は投票ということにさせて頂きます。

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w_p********さん

2019/1/1212:44:25

「縁起、それをわれわれは空と呼ぶ。それは質料因等に依っての 表示(仮)であるあり、それこそが中道である。」

『中論頌』の有名な詩頌です。

縁起によって生じた世界とは、五蘊(色受想行識)によって仮設された世界、現象世界のことです。
それを空と呼び、仮と呼び、中と呼ぶ。

つまり、五蘊仮和合により生じた世界には実体が有りませんから「空」と呼び、実体はないけれど我々の中には仮には有るので「仮」と呼び、有と空との両極端から離れるので「中」と呼ぶ。
縁起=空=仮=中
それが中観派の論じる「空」の立場です。

だから「中観」なんですよ。


説一切有部(小乗)は「人」などの存在は無我(空)だが、「五蘊の法」はある。「人空法有」の立場なんです。

中観(大乗)は五蘊の法も空である。「人法ニ空(人も法も空である)」の立場。

唯識は五蘊の中で「識」は仮に存在する。(唯ただ識のみ)として「識」の作用について詳しく論じ、三性説を以って中道としている。


唯識は中観よりは若干、有部寄りで、「識」の存在を認めている分、何となく分かりやすいのかもしれません。

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bkh********さん

編集あり2019/1/1223:39:53

仮ID でsaint が投稿

まず、諦とは仏教用語で真理を意味します。

具体的には二諦あり世俗諦(世俗の真理)と勝義諦(究極的真理)です。

龍樹の根本中論にこう説かれています。

人間に依拠して仏陀達は法を説いた。即ち世俗諦と勝義諦である。

これら二諦の区別を知らぬ者達は、仏陀の教えの甚深なる真理を知らない。

言語表現に依拠せずには、勝義諦を説示することはできない。

しかし勝義諦に到達しなければ、涅槃を獲得できない。

第八・九・十偈より。

龍樹菩薩により二諦が説かれて以降にあなたのように二諦の区別に混乱が生じたためにジュニャーナガルバは二諦分別論を著します。

仏陀や龍樹により二諦が区別されているにもかかわらず、大論師達が混乱しているのならその者に従っている他の者達は何をかいわんや。

それ故に、ジュニャーナガルバが区別をなすのである。

ではその大論師達とは唯識派の護法(530~561年頃)であるという。その他にもあるが私はここでは述べません。

ジュニャーナガルバは「勝義が(顕現するがままのもの)!として存在することは妥当ではない。

それは知のあらゆるあり方において、どのようにしても顕現しない」。
さらにその教証としで聖法集経の【何も見ないことが真実を見ることである】という一説を引用しています。


全てを正しく御覧になっておられる一切知者が何も見ないと述べられている以上遍計所執性、依他起性、円成実性の全てを見ないのであり三性全てが非存在であると考えるべきであると論駁。

さらには何も顕現しないのなら認識そのものが成立せず勝義としては自己認識も不合理として唯識派の勝義的な自己認識理解を否定。


しかしながら、自己認識否定のこの文からジュニャーナは自己認識を全て否定したかのように考えられるが、否定されたのはあくまで(勝義的な自己認識の否定)であることに注意が必要です。直接知覚という無分別知を含む一切の心の働きが少しでもある場合には、それは勝義諦ではなく世俗諦として、唯識派の解釈を否定。

一方、世俗諦については「顕現するがままのもの」として第三偈に述べられています。
「この顕現するがままのものこそが世俗諦であり、それとは別のものこそが勝義諦である」。

世俗諦に関して顕現するがままのものとは例えば暑い日に陽炎が生じ水が存在しないにもかかわらず水が存在するかのように見える場合は世俗諦の分別として認めるには問題がある。
これに対してジュニャーナガルバは顕現に関して同じであるも、その【効果作用】に能力があるものと能力のないものがあるために欺きの有無により判断されると理解されているのです。

陽炎では水が手に入らぬので、顕現が本物でなかったとされるのです。

しかしながら全ての顕現に対し効果作用を確認することは不可能です。

世俗の妥当性は、仏教の理論ではなく、世間一般の常識に委ねているのです。

あなたの御質問の酸素の話しは世俗諦の話 しであると思われます。


では勝義諦が【離戯論、不可言説】であるのならば、私達にはどのように如何にして理解されるのでしょう。


それに対して先行するバーヴィヴェーカは勝義とは勝義をもつものとして解釈し【真実を対象とする無分別知】と【不生等の教説・聞思修からなる智】という二種類の意味を導いているのです。

特に後者により言語表現不可能ではあるが二義的な勝義の存在は認めています。

真実を対象とする勝義的な般若と世俗を対象とする慣習的般若という二つの般若として示しています。

又、ジュニャーナガルバは世俗と勝義の橋渡しをする第二義的な勝義ついて言及し、不生は真実と相応するから勝義であると述べ不生を二義的な勝義と認めています。どうしても真実に至らねば。

以上 赤羽律先生の『ジュニャーナガルバの中観思想』
シリーズ大乗仏教第六巻より引用。

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アトムさん

編集あり2019/1/1220:21:25

空仮中の三諦

三諦とは一切の現象のあり方を3つの次元で捉えたもの、諦とは明らか

水を例にすれば

空諦……性質

仮諦……雪、氷、熱湯

中諦……H2O


私達の生き物の場合

空諦……性分、精神

仮諦……人、動物、その他

中諦……生命の本質(自我)


目に見えない心や精神は空であり有でも無でもありません、

怒りや喜びなどは何かを契機(縁)にして、こみ上げてくるが、やがてその感情は去ってしまう、これが空です。

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sgi********さん

2019/1/1214:25:22

空は部分観ですからそれをもって実態を把握するには困難があります。

物質の変化には常にエネルギーがついて回ります。それを物質の変化だけを見るのは間違い。

もうすこし思索が必要されてはどうでしょう。

考える前提として自分の知りうるものだけで納得できないときは、何が足らないんだろうと考えてみることも大事です。

科学にせよ仏教にせよ・・・

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餅饂飩さん

2019/1/713:34:09

空とはこだわらないことです。
観音菩薩は自意識に囚われないからこそ
自在に観ることができるのです
死ぬときも死ぬということをありのまま観るのです

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Inotinetさん

2019/1/712:33:08

図は私の作ったものです。

物的世界はちゃんとあるのです。それは絶えず運動して変化してします。
その中に我々認識力ともって生まれてくるのです。

そして認識したもので持って世界を作り上げているのです。
その世界だけで人間は生きているのです。それを唯識と言っているのです。

物的世界はないのではなく何も知りようがないのです。

図は私の作ったものです。

物的世界はちゃんとあるのです。それは絶えず運動して変化してします。...

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